大祓詞と驚愕の真実 後編
早速ですが、前回の続きになります
前回記事の前編がまだの方はこちら ↓
第4部 罪を祓う道具を作り祝詞をあげると
かく出ば、天津宮事以ちて、大中臣、天津金木を、本打切り、末打断ちて、
千座の置座に置足らはして、天津菅麻を、本刈断ち、末刈切りて、
八針に取辟きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ。
かく宣らば、天津神は、天の磐門を押し披きて、天の八重雲を、
伊頭の千別きに千別きて聞し食さむ。
国津神は、高山の末、短山の末に上り坐して、高山の伊穂理、短山の伊穂理を
掻き別けて聞し食さむ。
現代訳
高天原のやり方で、神祇官の中臣が硬い木の上下を断ち切り、祭壇を
設けてたくさんの供物を供え、高天原の麻の木の上下を断ち切り、八
つの針で細く引き裂いて、天津祝詞の太祝詞を宣り上げなさい。そのように宣り上げれば、天上界の神々は頑丈な岩戸を押し開き、幾
重にも重なる雲を掻き分け掻き分けてお聞き届けになるだろう。
地上界の神々も高い山、低い山の頂にお登りになって、高い山の庵も
低い山の庵も掻き分けてお聞き届けになるだろう。
考察
ここではお祓い祭祀の道具の作り方が述べられてますね。
そして「天津祝詞の太祝詞」を宣れと命じています。
本打ち、末打ちと本刈り、末刈りの繰り返し、高山の、短山のリズム
が実に心地よいですね。
この『天津祝詞の太祝詞』を宣れが昔から国学者の間で論争になって
る大問題なのです。「宣れ」と命令してるのは現時点と捉えられるの
で、何も言わぬうちに次の行で「かく宣らば」となっているのは不自
然ですね。
前編にあった「依し奉りき」の場合は既に過去ですから「かく依し奉
りし」と続けても違和感はないわけですが、現在進行中ではおかしい
と考えるのが普通でしょう。
ただ諸説は次の二つに別かれます。
1『天津祝詞の太祝詞』とは大祓詞自体説……本居宣長等
いやいやおかしくないよ、今奏上している言葉全体が『天津祝詞の太
祝詞』なんだからさ、という強引な主張です。
この場合は何も支障は起きないわけですが、なんだか無責任な印象
を受けます。昔の内務省も今の神社本庁もこれを踏襲しています。
2別に『天津祝詞の太祝詞』がある説……平田篤胤等
名称が違うんだから、違うものがあるに決まってるという主張です。
だとするとその太祝詞を挟まなないと大祓詞の祓い儀式は完成しな
いことになります。
そこで『天津祝詞の太祝詞』探しを巡りさらに謎が深まりますね。
私もこちらの説ですが、こういう事態になった理由は中臣家と卜部家
が分担していたためだと考えます。
この大祓詞は省略版の中臣祓も伝わってるので宣れと言ってるのは中
臣家で、それを受けて卜部家は非常に小さな声で天津祝詞の太祝詞を
上げていたのだと思います。
内容としては、祓いの詞である筈と考える方は多そうです。しかし祝
詞という種別が明示されているのでそうとも言い切れません。
日月神示では大祓ひについて「祝詞も抜けてゐるぞ」として別の巻で
大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「一二三(ひふみ)のりとコト」
入れてのれよ。忘れずにのれよ。
日月神示 水の巻9 より引用
とあり、日月神示では太祝詞としてひふみ詞を入れよと述べてるのです。
過去の記事で書いてますが
効果について数を数えてこの宝を振るわせれば痛むところが治るばか
りか、死者も生き返るとまで述べてますね。
ひふみ祝詞とは より引用
さすがに殺した相手を甦らせたとは思えませんが、少なくとも遺族や
加害者の魂を癒すことは出来そうに思います。
遺族や加害者が癒されれば、罪も浄化に繋がりそうです。
実際に唱える時は日月神示 祭りの巻14で数歌とひふみ祝詞をセット
にしてるので、「宣れ」の後に挟みます。
ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり
ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり
ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり
もも ち よろづ
続いて
過去の記事に書いた通り拍手を三つ入れたところから唱えます。
三音、五音、七音の組み合わせをそのかたまりで一つ無音区切りを入
れ最後の「れけ」のみ「れーけー」と伸ばします。
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
・・・ひふみ よいむなや こともちろらね
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 〇
うおえ にさりへて のますあせゑほれーけー
このひふみ祝詞を唱えてから大祓詞に戻るのが本来の形なのではと思
います。
。
と思っていたのですが、
もうひとつ有力な候補として「トホカミヱミタメ、祓い給え、清め給
え」だという説があります。
「トホカミヱミタメ」はホツマツタヱと並んで人気のフトマニ図の
1番目の円周上に配置されている歌みたいですが…
何故これが?と考えてみると、古事記で最初の子作りの子が未熟で
育たなかったため伊邪那岐と伊邪那美が天津神に相談する場面。
すると天津神は布斗麻邇フトマニで占って、女が先に声をかけたのが
失敗の原因だと判定するのでした。
つまり天津神がフトマニを占う時の祝詞だから、「天津神のフトマニ
の祝詞」とか「天津祝詞のフトマニ」とか呼ばれてゆき『天津祝詞の
太祝詞』という名称になったと考えると微妙にしつこい名称が納得さ
れると思いませんか。
私はこの主張の始まりは卜部家の囁くような祝詞をそばで耳をダンボ
にして聞いた人が伝えたのではないかと思います。
だとすると「トホカミヱミタメ、祓い給え、清め給え」は完全な文言
でない可能性もあると思います。
〈2020 12/18追記……どうやらこれは三種大祓と呼ばれるものの簡略
形で、先日、神社で祈願を受け宮司さんの祓いを聞いた時、間にもう
一行入ってるようでした。
祝詞集で確かめたら「トフカミエミタメ、寒言神尊利根陀見カンゴン
シンソンリコンタケン、祓い給ひ清め給ふ」みたいです。
では寒言神尊利根陀見とは何かと調べると、これは字が違いますが、
風水や奇門遁甲で使われる方位の呼び方と一緒でした。
寒言神尊利根陀見は坎艮震巽離坤兌乾のことで
北→坎(かん)、北東→艮(ごん)、東→震(しん)、東南→巽(そん)、
南→離(り)、南西→坤(こん)、西→兌(だ)、西北→乾(けん)
要は神様の御意志が全ての方位に現れ、清められることを祈念してる
のです。
ただトフカミエミタメは次に記す理由もあり、よりオリジナルに近い
トホカミヱミタメがより霊力があると思えます〉
確実に違うのはトホカミヱミタメにミがふたつ入っていることです。
なにしろフトマニ図は昔の50音図ですからダブる事はあり得ないわ
けです。
フトマニの祝詞を探ってみましょう。
フトマニ図の1番目の円周上に配置されている歌は原語では「トホカ
ミヱヒタメ」です。これを五回唱える意義について
トホカミイェヒタメを繰り替えして言うことは、非顕在のあなたの
「私」意識を、非顕在の星の神で、魂の親である守護神の「私」意識
につなぎます。
Universal Forum より引用
と説明されてます。※ この方は「ヱ」を「イェ」と独自表記されてます。
さらに2番目の円周上に配置されている歌も見るとアイフヘモヲスシ
となっており
「トホカミヱヒタメ」と「アイフヘモヲスシ」を連続して唱えるこ
とにも意義があるそうです。
トホカミイェヒタメアイフヘモヲスシを続けて繰り返すと宇宙の基底
の力が働きます。宇宙の基底の力は対立を統一させる力を強化します。中略
アイフヘモヲスシの意味は、「愛は苦悩と後悔を溶かす」です。
Universal Forum より引用
対立を統一し苦悩と後悔を溶かすというのは大祓いの目指すところに
も繋がりぴったりきますね。
トホカミヱヒタメ
トホカミヱヒタメ
トホカミヱヒタメ
トホカミヱヒタメ
トホカミヱヒタメ
トホカミヱヒタメ アイフヘモヲスシ
トホカミヱヒタメ アイフヘモヲスシ
締めくくりに中心の3文字アウワを唱えます。
このアウワは潜象界と現象界が結ばれることを示しています。
アウワ
寒言神尊利根陀見、祓い給ひ、清め給ふ
うーん、ひふみがよいのか、フトマニがよいのかか、困りました。
こいうい場合は大きな心でいきましょう。
どちらが正解なのか結論は出せませんが、ここは両方唱えておくとい
う折衷案でいきます。
こうすれば片方に絞ってしまい不正解で無駄になる危険がないですし、
神霊様も効果ある天津祝詞の太祝詞が入っていれば付け足した方は気
にせずに、「なんとも久しぶりに正しい大祓詞を聞いたぞ、懐かしい
のう」と感激してくださるでしょう。
最後尾に個人が宣るのに不要の部分をカットし、このひふみによる太
祝詞を挟んだ 大祓詞完成形 を掲載しておきます。
第5部 神々が聞き届ければ罪は洗い流される
かく聞し食してば、皇御孫の命の朝廷を始めて、天下四方の国には罪と云ふ罪は
在らじと、科戸の風の、天の八重雲を吹放つ事の如く、
朝の御霧夕の御霧を、朝風夕風の吹掃ふ事の如く、
大津辺に居る大船を、舳解放ち、艫解放ちて、大海原に押放つ事の如く、
彼方の繁木が本を、焼鎌の敏鎌以ちて、打拂ふ事の如く、
遺る罪はあらじと、祓ひ給ひ清め給ふ事を、
現代訳
このように天津神、国津神がそれぞれお聞き届けになれば、皇孫の御
殿をはじめ天下四方の国中の罪は無くなるだろう。それはまるで科戸というところから吹きつける風が幾重にも重なる雲
を吹き飛ばすように、
朝の霧、夕の霧を、朝の風が、夕の風が吹き払うように、
大きな港に休む大きな船を船首の綱を解き放ち、船尾の網を解き放ち
して大海原に押し出すように、向こうの繁った木の根元を切れる鎌で鋭い鎌で打ち払うように、
罪が消えてゆき何も残らないように祓い清められることを祈る。
考察
ここで天下四方の国中と空間を指定してる点が注目です。
〈後で時間について述べてて対になってるとわかります〉
この罪が消えゆく様子を雲や霧が風に吹き飛ばされる光景と捉えたり
船が大海に滑るように進む様子に喩えるところは実に美しいです。
そのリズム感溢れる表現も卓越していて、これほどの完成度の高い文
章をその辺の官吏が書けるとは思えません
ほんとにこれは柿本人麻呂級のプロ作品だと思えます。
第6部 祓いの神々が次々と罪を洗い流す
高山の末、短山の末より、佐久那太理に落ち、瀧つ速川の瀬に坐す、
瀬織津姫と云ふ神、大海原に持ち出なむ。
かく持ち出往ば、荒塩の塩の八百道の八塩道の、塩の八百会に坐す、
速開都姫と云ふ神、持ち可可呑てむ。
かく可可呑てば、気吹戸に坐す、気吹戸主と云ふ神、根の国底の国に気吹放ちてむ。
かく気吹放ちてば、根の国底の国に坐す、速佐須良姫と云ふ神、持ち佐須良比
失ひてむ。
かく失ひてば、天皇が朝廷に仕へ奉る、官々の人達を始めて、天下四方には、
今日より始めて、罪と云ふ罪は在らじと、高天原に耳振立てて聞く者と、馬牽き
立てて、今年の六月の晦の夕日の降ちの大祓に祓へ給ひ清め給ふ事を、
諸聞し召せ」と宣る。
「四国の卜部等、大川道に持ち退りて祓ひ却れ」と宣る。
現代訳
すると高い山、低い山の麓から勢いよく落ちる滝の先の速川におられる
瀬織津姫という神が全ての罪を大海原に持ち出すだろう。こうして全ての罪を持ち出したなら、今度は荒々しい潮が重なり潮がぶ
つかり合う潮目におられる速開都姫という神が罪を全部飲み込むだろう。そして、速開都比売が罪を飲み込むと、今度は息が生まれる戸口におら
れる気吹戸主という神が全ての罪を息吹きに変えて吐き出し根の国底の
国に吹き飛ばしてくれるだろう。そして息で吹き飛ばされたなら、根の国底の国にいらっしゃる速佐須良
姫という神が全ての罪を持ったまま彷徨い歩いて失くしてしまうだろう。このように彷徨い歩いて罪を失くしてしまったら、皇孫の御殿に勤める
役人はもちろん、天下四方の国中から今日という日を初めとして罪は一
切消えしまうだろうと、高天原の神の声を聞く馬を引き連れて声を聴き
今年の六月晦の夕日が傾く大祓にあたり、祓い清めてくださることを、
全ての神々にお聞き届けて下さいと宣り上げる。
四国の卜部達は祓いの道具を大川に持ち祓い流しやれと申し渡す。
考察
勢いよく落ちる滝の先、速い川におられる瀬織津姫様!
いよいよファンの方も妙に多い女神様のご登場です。
速開都姫や速佐須良姫の人気が今ひとつなのは会いに行けないからです
かね。
罪のバトンは瀬織津姫から速開都姫、速開都姫から気吹戸主、気吹戸主
から速佐須良姫と渡されてゆきます。
アンカーの速佐須良姫は見事に罪を失くしてしまい、罪も咎も消える、
ここで先程の天下四方に対し、今日より始めてと時間を指定してます。
罪は悪意ある犯罪、対して咎は過失のような事です。
最後の一文で卜部家が中臣家と役割分担してこの祓いを進行しているの
がわかりますね。
第7部 太祝詞入りの大祓詞が完成
ようやく最後までたどり着きました。
最初に見たように六月晦大祓は天皇の前に集まった役人に向かい拝聴す
るようにという挨拶が入りました。しかし通常の用途では不要ですので
この冒頭の部分は省略できます。
そして大問題だった「宣れ」と「かく宣らば」の間には、十種神宝の霊
力に繋がる数歌とひふみ祝詞、さらに対立を統一し苦悩と後悔を溶かす
というフトマニの歌が入ります。
この部分は小さな声で唱えるのがよいようです。
後、問題が残るのが最終部分です。
おしまいの3行手前で六月と限定が入ってるのは無い方がいいですし、
後片付けの最後の1行も不要かと思います。
この締めくくり部分は六月晦大祓の簡略版である中臣祓から借用するこ
とにします。
では完成版は以下になります。
高天原に神留り坐す、皇親神漏岐 神漏美の命以ちて、
八百万の神等を神集へに集へ賜ひ、神議りに議り賜ひて、
『我皇御孫の命は、豊葦原の水穂国を、安国と平けく知し食せ』と事依し奉りき。
かく依し奉りし国中に、荒振る神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神拂ひに拂ひ
賜ひて、言問ひし磐根樹根立草の垣葉をも言止めて、天の磐座放ち、
天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて、天降し依し奉りき。
かく依し奉りし四方の国中と、大倭日高見国を、安国と定め奉りて、
下津磐根に宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて、皇御孫の命の瑞の
御舎仕へ奉りて、天の御蔭、日の御蔭と隠りまして、安国と平けく知し食さむ。
国中に成り出む、天益人等が、過ち犯しけむ雑々の罪事は、
天津罪とは、畔放ち、溝埋め、頻蒔き、串刺し、生剥、逆剥、屎戸、
許許太久の罪を天津罪と宜りわけて、
国津罪とは、生膚断ち、死膚断ち、白人、胡久美、己が母犯せる罪、己が子
犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜犯せる罪、昆虫の災、
高津神の災、高津鳥の災、畜仆し、蠱物せる罪、許許太久の罪出む。
かく出ば、天津宮事以ちて、大中臣、天津金木を、本打切り、末打断ちて、
千座の置座に置足らはして、天津菅麻を、本刈断ち、末刈切りて、
八針に取辟きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ。
ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり
ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり
ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり
もも ち よろづ・・・ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか
うおえ にさりへて のますあせゑほれーけートホカミヱヒタメ
トホカミヱヒタメ
トホカミヱヒタメ
トホカミヱヒタメ
トホカミヱヒタメトホカミヱヒタメ アイフヘモヲスシ
トホカミヱヒタメ アイフヘモヲスシアウワ 祓い給え、清め給え
かく宣らば、天津神は、天の磐門を押し披きて、天の八重雲を、
伊頭の千別きに千別きて聞し食さむ。
国津神は、高山の末短山の末に上り坐して、高山の伊穂理短山の伊穂理を
掻き別けて聞し食さむ。
かく聞し食してば、皇御孫の命の朝廷を始めて、天下四方の国には罪と
云ふ罪は在らじと、科戸の風の、天の八重雲を吹放つ事の如く、
朝の御霧夕の御霧を、朝風夕風の吹掃ふ事の如く、
大津辺に居る大船を、舳解放ち、艫解放ちて、大海原に押放つ事の如く、
彼方の繁木が本を、焼鎌の敏鎌以ちて、打拂ふ事の如く、
遺る罪はあらじと、祓ひ給ひ清め給ふ事を、
高山の末、短山の末より、佐久那太理に落ち、瀧つ速川の瀬に坐す、
瀬織津姫と云ふ神、大海原に持ち出なむ。
かく持ち出往ば、荒塩の塩の八百道の八塩道の、塩の八百会に坐す、
速開都姫と云ふ神、持ち可可呑てむ。
かく可可呑てば、気吹戸に坐す気吹戸主と云ふ神、根国底国に
気吹放ちてむ。
かく気吹放ちてば、根国底国に坐す、速佐須良姫と云ふ神、持ち
佐須良比失ひてむ。
かく失ひてば、今日より始めて、罪と云ふ罪、咎と云ふ咎は在らじと
祓へ給ひ清め給ふ事の由を、八百万の神等諸共に、左男鹿の八の耳を
振立て所聞食せと申す。
※「天津祝詞の太祝詞」部の選定、編集は私の個人的主観によるものです。
ご使用される場合は自己責任でお願いします。
また、良い結果等がありましたら教えていただけると幸いです。
ご精読ありがとうございました。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません