天津祝詞の太祝詞事がわかった!

富士と霞


1『天津祝詞の太祝詞』という謎

大祓詞中段にある「『天津祝詞の太祝詞』を宣れ」が昔から国学者の
間で論争になってきました。
私も過去記事「大祓詞と驚愕の真実 後編」で取り上げました。

 

ただ諸説は次の二つに別かれます。

1『天津祝詞の太祝詞』とは大祓詞自体説……本居宣長等

いやいやおかしくないよ、今奏上している言葉全体が『天津祝詞の太
祝詞』なんだからさ、という強引な主張です。
この場合は何も支障は起きないわけですが、なんだか無責任な印象
を受けます。昔の内務省も今の神社本庁もこれを踏襲しています。

2別に『天津祝詞の太祝詞』がある説……平田篤胤等

名称が違うんだから、違うものがあるに決まってるという主張です。
だとするとその太祝詞を挟まなないと大祓詞の祓い儀式は完成しな
いことになります。
そこで『天津祝詞の太祝詞』探しを巡りさらに謎が深まりますね。

大祓詞と驚愕の真実 後編 より引用
https://elu.tokyo/mental/great-purification2/

 

そして今は説2の中で太祝詞事はこれだという自説がさまざまな
方により展開されている状況です。

かくいう私もベストなのは何だろうかと仮説を立てたり、毎日、
唱えながら探求してきました。
ところがある時にふと気付いたのです。

それは根本の部分で答えがすでに出てるのではということです。

そこで今回、説3を提唱いたします。それは……

 

3天津祝詞の太祝詞とは天津祝詞自身である

 

1の今奏上してる大祓詞が『天津祝詞の太祝詞』なんだよと
似てますが、確たる理由がある点でおおいに違います。

 

これを解き明かすにはまず「太祝詞ふとのりと」の意味を調
べることが最初に必要なのです。
ところが皆さんは太祝詞を何かの祝詞なんだろうな? から
取り掛かり、ではそれは何なんだとすぐに史料を読み漁って
しまわれたのではないでしょうか?

しかしそうではないのです。

太祝詞とは○○祝詞の類ではなく、定例文言をどのように
宣るかといういわば謳い方を指しているのです。
これにはうかつにも私自身が接近遭遇してました。

『日本書紀』天岩戸で「天児屋命あまのこやねのみことをして、其の解除はらへ太諄辞ふとのりとを掌りて
宣らしむ」とあって、これが大祓詞の基礎といえるでしょう。

大祓詞と驚愕の真実 前編 より引用
https://elu.tokyo/mental/great-purification1/

この文を書いてる時は祓い清める方に焦点を向けていて肝心の
太祝詞を深く考えてなかったのです。

ここの解除はらへ太諄辞ふとのりととは、解除文言を厳かに謳うことを意味し
天津祝詞の太祝詞事と文法的にも同等の用例といえるのでは
ないでしょうか?

古事記にも書かれた太祝詞がひとつあり、
天の岩戸(石屋)に天照大御神が隠れた時に祈祷の道具を揃えた後

天兒屋命アメノコヤノミコト布刀詔戸言ふとのりとことことほき白して

出典:國學院大学 古事記ビューアー

とある場面です。
こちらは謳うべき文言が不明ではありますが、大御神を
呼び戻すという一世一代の大役の場面であり、普段とは
段違いに厳かに謳わなければならないのです。

さらに同じような用例が万葉集の大伴家持の歌にありました。

造酒歌一首

中臣の太祝詞言言ひ祓へ贖ふ命も誰がために汝れ

出典: 万葉集ナビ 万葉集 第17巻 4031番歌/作者・原文・時代・歌・訳

 

こちらも中臣は人名ではなく、中臣の祝詞か中臣の祓えを指しており、
その太祝詞言と述べてるわけで、天津祝詞の太祝詞事と文法的にも全く
同等の用例といえます。

太祝詞について國學院大學データベースでは次のように解説されています。

表記 太祝詞
テキスト内容 立派な祝詞。太は美称。祝詞は神に向かって唱える言葉である。
記の神代に天照大御神が天の岩屋戸に隠れたとき、八百万の神が集まり、
布刀玉命が様々な献物を持ち、天児屋命が「布刀詔戸言」を申し上げたとある。
また紀の神代上第七段一書第一には、日神が磐戸から再び現れた後、その原因
となる乱行を働いた素戔嗚尊に対して「解除」を科す際、天児屋命に「解除の
太諄辞」(訓注に「太諄辞、此をば布斗能理斗と云ふ」とある)を宣らせたと
ある。
この2例はいずれも天の岩戸神話の文脈にみられるが、記の太祝詞は天照大御
神の出現を目的としたものであるのに対して、紀のそれは素戔嗚尊の罪を祓う
ために唱えられたという差異が認められる。
このことから「太祝詞」とは固有の詞章に対する名称ではなく、神に向けられ
た詞章の総称でることが明らかである。
万葉集では大伴家持が「酒を造れる歌一首」(17-4031)として、「中臣の
太祝詞言」を唱えて祓えをし、祈る命も誰のためか、あなたのためだ、と詠ん
だのが唯一の例で、造酒の際に祝詞が唱えられることがあった
國學院大學データベースより引用

 

「太祝詞」とは立派な祝詞であり固有の詞章に対する名称ではなく、
神に向けられた詞章の総称と述べてますね。

さらに言うなら偽書と軽視されるフキアエズ朝の歴代天皇名ですが
38代目は天津太詞子アマツフトノリトヒコ天皇天日身光天皇と名前に太祝詞が入ってます。
これも固有の詞なのではなく、祝詞を美しく厳かに謳うことが得意
であったので諱名に残されたと考えられます。

私は「太祝詞」は中立的な普通名詞ではなく、素晴らしい美しい
という形容を予め含んだ謳い方への美称なのだと思います。

つまり『天津祝詞の太祝詞』とは天津祝詞を美しく荘厳に謳ったものな
のです。

これは本来の祝詞は色を付けないと言いますか、一本調子で淡々と宣る
のが常道という前提がある中で、天岩戸やスサノオ赦免、酒造りなどの
とっておきの場面が来た時に、特別に華やかにまたは荘厳に謳うことで
祝詞への思い入れを際立たせたいのだと思えるのです。

2具体的にはどういう形か

ではより具体的にはどう宣ればよいのでしょうか?
そう問われると残念ながら並みの人間にはその答えを返す叡智は欠け
ているようです。

もし参考に出来るとしたら霊示的なものでしょう。
そういうスピリチュアルにより公開されているものは探し出す事は
可能です。ただあまりに古いと現在の大祓詞を取り巻く状況から離れ
すぎてしまうでしょうから昭和以降でしょう。

 

そこで日月神示が候補に挙がります。

昭和19年からた岡本天明に「国常立尊」(国之常立神)が降りて
自動書記させたと言われています。
国常立尊から当時、留守神主をしてた神社から立ち去るよう
連日勧告され、天明はそれに従い空襲を避けることが出来、そ
の後に本格的な自動書記が始まります。

また軍部に熱烈な支持者を得たにも拘らず、敗戦を予言し的中さ
せた他、現在のコロナ禍を予言する言葉などもあり一定の信頼性
はあるかと思われます。

今に病神の仕組にかかりてゐる臣民苦しむ時近づいたぞ、病流行
るぞ、この病は見当とれん病ぞ、病になりてゐても、人も分らね
ばわれも分らん病ぞ、
日月神示 九二つ巻16 より引用

 

その中で大祓詞について述べてる帖があります。

お祓ひ祝詞は宣るのぞ、今の神主 宣ってないぞ、口先ばかりぞ、
祝詞も抜けてゐるぞ。あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜
けて読んでゐるではないか、臣民の心には汚く映るであろうが、
それは心の鏡曇ってゐるからぞ。悪や学にだまされて肝心の祝詞
まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。
祝詞は読むものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐ
るが、それ丈では何にもならんぞ。宣るのざぞ、祈るのざぞ、な
りきるのざぞ、とけきるのざぞ、
日月神示 地つ巻8 より引用

 

天津祝詞がまるごと入ってる日月神示水の巻第2帖もあります。
ここでは最初にひふみ祝詞を唱えてから天津祝詞、天の日月
の神への略拝詞、数詞までがセットになっています。

ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、
うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞ひふみ祝詞であるぞ。
高天原に、神つまります、神漏岐と神漏美の命もちて、皇御親神
伊邪那岐の命、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、禊ぎ祓ひ給ふときに、
なりませる祓え戸の大神たち、もろもろの禍事、罪、穢れを、
祓え給へ清め給へと 申す事の由を、天津神、国津神、八百万の神たちとともに
天の斑駒の、耳振り立てて、聞こし食せと、畏み畏み白す。
天の日月の神、守り給へ 幸はへ給へ、
天の日月の神、弥栄ましませ、弥栄ましませ、
一二三四五六七八九十(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリ)。
日月神示 水の巻2 より引用

 

次の個所ではひふみ祝詞の唱え方を三五七に区切って最後だけ
延ばせ、それを三回繰り返せと指導しています。

一二三祝詞するときは、神の息に合はして宣れよ、
神の息に合はすのは三五七、三五七に切って宣れよ。
しまひだけ節長くよめよ、それを三たび読みて宣りあげよ。
天津祝詞の神ともこの方申すぞ。
日月神示 下つ巻7 より引用

 

最後に一二三ひふみ祝詞の神は天津祝詞の神とも云われると出自を
明らかにしています。なるほど、それで水の巻の第2帖では
ひふみ祝詞と天津祝詞をセットにしていたのですね。

 

大祓ひ祝詞に天津祝詞の太祝詞「一二三ひふみ祝詞コト」
入れてのれよ。忘れずに宣れよ。
その日からいよいよ神は神、けものはけものとなるぞ。
日月神示 水の巻9 より引用

ここで大祓詞を大祓祝詞と言い間違えてますが、それと天津祝詞、
さらに「」で強調してひふみ祝詞を入れて宣れよと言ってます。

ここで天津祝詞の太祝詞がひふみ祝詞だと主張してるのではない
ことは水の巻第2帖のひふみと天津のセットから明らかですね。

 

結論として天津祝詞の太祝詞事は日月神示水の巻第2帖の形、
ひふみ祝詞を唱えてから天津祝詞、天の日月の神への略拝詞、
数詞までですが、天の日月の神への略拝詞は宗派に併せて変更
されることが起きてくるでしょう。
それがよいことかはわかりかねます。

日月神示の言が正しいかどうかは最終的には自らの魂の感性で
審神するしかないように思います。

ご精読ありがとうございました。