大祓詞と驚愕の真実 前編

2020年11月8日

祝詞奏上

大祓詞おおはらひのことばは927年(延長5年)に完成した平安時代の法制書『延喜式』巻八
に「六月晦大祓」として掲載されている祝詞です。

ただ現在巷に普及している大祓詞は大正3年に内務省が制定したものか、
太平洋戦争後に神社本庁が制定したものに範を取った簡略版が殆どです。

ここでは六月晦大祓を掲載して、成立事情や意味などを考察してゆき、
隠されてた真実を明らかにします。

おおまかな構成を見てゆくと

1官吏が開会を宣言

2神祇官(中臣家)がこういう儀式だから拝聴せよと注意

3天皇が一族と官吏ら一堂に向かい長文の大祓詞を宣言する。
その内容は天孫降臨からの道のりとその過程で生じた罪についての説明
道具の準備、天津祝詞の太祝詞を唱えることを勧め
天津神、国津神も聞き届けてこの国のあちらこちらも感応して
大祓いの神たちによって罪は海へ流され、また飲み込まれ、吹き飛ばされ
根の底の国にまで至り、流離ううちに無くなってしまい、罪は消えるだろう

4式典官吏(卜部家)よ、お祓いの品を川に捨てて片づけるように

となっており、最重要の単語呼応は

祓ひ給ひ清め給ふ事を 聞こし召せ

(揃わない箇所は補うと見通しがよくなります)

では大祓詞完全版である「六月晦大祓」本文にとりかかりますが、まずは
区切らずに一気に見ましょう。

大祓詞全文

六月みなづきつごもり大祓おおはらへ 十二月しはすこれなぞら

うごはれる、親王みこ諸王おほきみ諸臣まえつきみ百官人達もものつかさびと諸聞召もろもろきこしめせ」とる。

天皇すめら朝廷みかどつかまつる、比礼ひれくる伴男とものを手襁たすきくる伴男とものをゆき伴男とものを

たち伴男とものを伴男とものを八十伴やそともを始めて、官官つかさづかさつかまつ人達ひとどもの、あやまをか

けむ雑々くさぐさつみを、今年ことし六月みなづきつごもり大祓おおはらへに、はらたまきよたまことを、

諸聞召もろもろきこしめせ」とる。

 

高天原たかまはら神留かむづます、皇親すめらがむつ神漏岐かむろぎ神漏美かむろみみことちて、

八百万やほよろづ神等かみたちかみつどへにつどたまひ、かみはかりにはかたまひて、

我皇御孫あがすめみまみことは、豊葦原とよあしはら水穂国みずほのくにを、安国やすくにたひらけくしろせ』とことよさまつりき。

よさまつりし国中くぬちに、荒振あらぶ神等かみたちをば、神問かむとはしにはしたまひ、神拂かむはらひにはら

たまひて、言問こととひし磐根いはね樹根立きねたちくさ片葉かきはをも言止こととめて、あめ磐座いはくらはなち、

あめ八重雲やへぐも伊頭いづ千別ちわききに千別ちわききて、天降あまくだよさまつりき。

よさまつりし四方よも国中くぬちと、大倭日高見おほやまとひだかみくにを、安国やすくにさだまつりて、

下津磐根したついはね宮柱みやはしら太敷ふとして、高天原たかまはら千木高ちぎたかりて、皇御孫すめみまみことみづ

御舎みあらかつかまつりて、あめ御蔭みかげ御蔭みかげかくりまして、安国やすくにたひらけくしろさむ。

 

国中くぬちいでむ、天益人等あめのますひとらが、あやまをかしけむ雑々くさぐさ罪事つみごとは、

 

天津罪あまつつみとは、畔放あはなち、溝埋みぞうめ、頻蒔しきまき、串刺くしざし、生剥いきはぎ逆剥さかはぎ屎戸くそへ

許許太久ここだくつみ天津罪あまつつみりわけて、

国津罪くにつつみとは、生膚いきはだち、死膚しにはだち、白人しろひと胡久美こくみおのははをかせるつみおの

をかせるつみははをかせるつみははをかせるつみけものをかせるつみ昆虫はふむしわざはひ

高津神たかつかみわざはひ高津鳥たかつとりわざはひけものたほし、蠱物まじものせる罪、許許太久ここだくつみいでむ。

 

いでば、天津宮事あまつみやごとちて、大中臣おほなかとみ天津金木あまつかなぎを、本打切もとうちきり、末打断すえうちたちて、

千座ちくら置座おきくら置足をきたらはして、天津菅麻あまつすがそを、本刈断もとかりたち、末刈切すえかりきりて、

八針やはり取辟とりさきて、天津祝詞あまつのりと太祝詞事ふとのりとごとれ。

 

らば、天津神あまつかみは、あめ磐門いはとひらきて、あめ八重雲やへぐもを、

伊頭いづ千別ちわききに千別ちわききてきこさむ。

国津神くにつかみは、高山たかやますえ短山ひきやますえのぼして、高山たかやま伊穂理いほり短山ひきやま伊穂理いほり

けてきこさむ。

きこしてば、皇御孫すめみまみこと朝廷みかどはじめて、天下あめのした四方よもくににはつみつみ

らじと、科戸しなどかぜの、あめ八重雲やへぐも吹放ふきはなことごとく、

あした御霧みぎりゆうべ御霧みぎりを、朝風夕風あさかぜゆふかぜ吹掃ふきはらことごとく、

大津辺おほつのべ大船おほふねを、解放ときはなち、とも解放ときはなちて、大海原おほわたのはら押放おしはなことごとく、

彼方をちかた繁木しげきもとを、焼鎌やきがま敏鎌とがまちて、打拂うちはらことごとく、

のこつみはあらじと、はらたまきよたまことを、

高山たかやますえ短山ひきやますえより、佐久那太理さくなだりち、たぎ速川はやかわす、

瀬織津せおりつひめかみ大海原おほわたのはらいでなむ。

いでいなば、荒塩あらしほしお八百道やほぢ八塩道やしほぢの、しほ八百会やほあひす、

速開都はやあきつひめかみ可可かかのみてむ。

可可かかのみてば、気吹戸いぶきどす、気吹戸いぶきどぬしかみくにそこくに気吹いぶきはなちてむ。

気吹いぶきはなちてば、くにそこくにす、速佐須良はやさすらひめかみ佐須良比さすらひうしなひてむ。

 

うしなひてば、天皇すめら朝廷みかどつかまつる、官々つかさづかさ人達ひとどもはじめて、天下あめのした四方よもには、

今日けふよりはじめて、つみつみらじと、高天原たかまはら耳振立みみふりたててものと、うま

てて、今年ことし六月みなづきつごもり夕日ゆうひくだちの大祓おおはらへはらたまきよたまことを、

もろもろきこせ」とる。

四国よくに卜部等うらべだち大川道おほかわぢ退まかりてはられ」とる。

 

それでは以下にブロック分けしたものを現代語訳しながら考察していきます。

 

第1部 開会 神祇官(中臣家)が拝聴を促す

六月みなづきつごもり大祓おおはらへ 十二月しはすこれなぞら

うごはれる、親王みこ諸王おほきみ諸臣まえつきみ百官人達もものつかさびと諸聞召もろもろきこしめせ」とる。

天皇すめら朝廷みかどつかまつる、比礼ひれくる伴男とものを手襁たすきくる伴男とものをゆき伴男とものをたち伴男とものを

伴男とものを八十伴やそともを始めて、官官つかさづかさつかまつ人達ひとどもの、あやまをかしけむ雑々くさぐさつみを、

今年ことし六月みなづきつごもり大祓おおはらへに、はらたまきよたまことを、諸聞召もろもろきこしめせ」とる。

現代訳

六月晦の大祓い 師走の晦も同様にせよ

お集りの親王、諸王、大臣、その部下の百官ども、皆揃って拝聴せよ

天皇のために集った、ひれを掛けた者、襷を掛けた者、御膳奉仕の人々、
靫を背負った者、剣を腰に着けた者、その部下の警護の人々、その他の
役所にお仕え申し上げている役人たちが、これまでに過ち犯してきたと
思われる種々雑多な罪を、この六月の晦日の大祓の儀式で、きれいに
祓い清めて頂けるのだから、皆の者ら、よく聞くようにと宣り聞かせる。

考察

ここで成立事情としては、これは神に直接向かって申し上げる祝詞ではな
く、天皇の臣下に申し聞かすという方向である点が異色の祝詞となります。

それじゃあ一般人が唱えても意味ないのかと聞かれれば、意味はあるの
ではないかと思います。誰でも罪は犯す可能性はあるし、それに対して
言霊の幸ふ国の王がきれいに祓い清めると言っているのですから。

『日本書紀』天岩戸で「天児屋命あまのこやねのみことをして、其の解除はらへ太諄辞ふとのりとを掌りて
宣らしむ」とあって、これが大祓詞の基礎といえるでしょう。

そもそも日本文化の特徴として祟りを恐れるというのがあります。

日本語の持つ神秘的な力がこの国にはしっかりと影響力を持っているの
だと思えます。日本には目に見えない掟と力があり、日本の掟に逆らっ
てしまった人はしっぺ返しに遭う。

崇神天皇の頃、多くの民が疫病で死ぬと崇神天皇は天照大神と倭大国魂
神の祟りだろうと考えて皇居の外に追いやります。天皇が天照大神の祟
りを恐れるなんて私たちの感覚では理解できないですよね。

時代が下ると菅原道真が有名ですね。都の皇族、貴族は疫病や天災を道
真の祟りではないかと考えて神社を建てて祀るのですから、現代人の感
覚からしたら笑ってしまいますね。

有名どころでは崇徳上皇、平将門なども祟りを恐れられた人物です。

災いを誰かの祟りと捉えてなんとか鎮まってほしいというのが大祓の
存在理由なのだと考えられます。

 

第2部 荒ぶる神を従わせて皇孫が降臨

高天原たかまはら神留かむづす、皇親すめらがむつ神漏岐かむろぎ神漏美かむろみみことちて、

八百万やほよろづ神等かみたちかみつどへにつどたまひ、かみはかりにはかたまひて、

我皇御孫あがすめみまみことは、豊葦原とよあしはら水穂国みずほのくにを、安国やすくにたひらけくしろせ』とことよさまつりき。

よさまつりし国中くぬちに、荒振あらぶ神等かみたちをば、神問かむとはしにはしたまひ、神拂かむはらひにはら

たまひて、言問こととひし磐根いはね樹根立きねたちくさ片葉かきはをも言止こととめて、あめ磐座いはくら放ち、

あめ八重雲やへぐも伊頭いづ千別ちわききに千別ちわききて、天降あまくだよさまつりき。

よさまつりし四方よも国中くぬちと、大倭日高見おほやまとひだかみくにを、安国やすくにさだまつりて、

下津磐根したついはね宮柱みやはしら太敷ふとして、高天原たかまはら千木高ちぎたかりて、皇御孫すめみまみことみづ

御舎みあらかつかまつりて、あめ御蔭みかげ御蔭みかげかくりまして、安国やすくにたひらけくしろさむ。

現代訳

高天原におられる皇親神漏岐と神漏美の仰せにより、あらゆる神々を
集めて相談されて「わが孫には豊蘆原の水穂国を安らかな国に収め
統治させよ」と任された。

こう任されたのでこの国で暴れていた神々を問い詰めて追い払った。
不満を述べてた草木も騒ぎを止めて静かになったので、道を塞いでた
天の磐石を除き八重雲をかき分けかき分け、天孫を降臨させ奉じた。

こうして奉じられた四方の国と大倭日高見国を安らかな国と定めて
下津磐根には宮柱を太く建て高天原に向けて千木を高くさせて、皇孫
の御殿を建て申し上げ、天を覆い、日光を覆う奥に落ち着き安らかな
国として統治された

考察

ここでの実質的な主体は伊邪那岐であり、その親である神漏岐と神漏
美の命令「わが孫(邇邇芸命?)に水穂国を統治させよ」を実行します。
それで草木に至るまで静かになったから、いよいよ皇孫が雲をかき分
けて降臨したという物語です。
つまり古事記の天孫降臨を大雑把になぞった内容なんですね。

不思議なのが大倭日高見国という国名を入れて来た事です。
素直に読むと大倭日高見国が朝廷の中心みたいな印象ですよね。

しかし「日本書紀」景行天皇27年には「東夷の中、日高見国有り。
其の国人、男女並に椎結(かみをあげ)、身を文(もどろ)けて、
人となり勇悍(いさみたけ)し。是をすべて蝦夷と曰(い)う。亦
(また)土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取るべ
し」と侵略すべきとして挙げられている蝦夷地ですよ。

江戸時代の賀茂真淵はこれを知らないため、常にお日様が空にあるか
ら日高見なんだと訳の分からない事を言ってます。
当時の朝廷貴族でも蝦夷の認知はあっても日高見国に対する認識が低
かったのをいいことに編者が手を加えたような気がしてきます。

古事記にしろ日本書紀にしろ、国策の史書は権力争いの勝者の話です
から、そこには過剰なまでの美化と神格化があります。

対して敗者は勢力を削がれ伝承も途絶えがちですが、なんとか伝承が
継承されてる場合、敗者自身の記録はやはり話が美化される事があり
ますが、勝者が何をしたかの記録はむしろ正史より正確に残されてい
ると考えてよいのです。

私もスサノオの小説を書こうと調べていて史料からヤマタノオロチと
は古志から来た豪族だなと当初は表面的に捉えていました。

しかし出雲王家の子孫の伝承を知り愕然としました。

紀元前二世紀、三千人以上を連れて来日した徐福が土着すれば当然一
大勢力となり記録に残る筈です。しかし名前が見えません。
これはどうしてなのでしょう?

実は徐福はスサノオと名乗り出雲に上陸し、王の娘を嫁に取った上で
王と副王を拉致させ死なせて国を乗っ取ろうとしたのです。しかし出
雲は王権の交代制が出来てたためか果たせず、子を残し自身は出雲を
退却、今度はニギハヤヒに名を変えて九州に再上陸したのです。
そして九州の子孫が神武となり東征したらしいのです。

そこで出雲から既に大和に入っていた子孫物部氏と東征してきた神武
が出会って互いの神器を見せ合って、どちらも徐福の子孫だと分かり
めでたく手を握ったのです。物部の部下だった縄文族脛長彦は落胆し
て蝦夷に逃げたというのが真相のようです。

さらに古事記は柿本人麻呂が書かされた説があります。実際に古事記
に見られるリズム感ある対句表現はただの事務官吏の文章とは思えま
せん。だからこそ人々に愛されているのです。その表現力はこの大祓
詞にも同様に生きていて、どちらも彼により美しく整えられたと想像
できるのです。

人麻呂は歴史を歪める改竄を強要されて表面的には従いながらも、ど
こかでこの悪事を糾弾してやろうと企てたのだと思います。
そこでさりげなく反朝廷の象徴である蝦夷を大倭日高見国と表現して
この大祓詞に忍ばせたのではないかと思えるのです。

 

第3部 人々が犯した天津罪と国津罪

 国中くぬちいでむ、天益人等あめのますひとらが、あやまをかしけむ雑々くさぐさ罪事つみごとは、

 

天津罪あまつつみとは、畔放あはなち、溝埋みぞうめ、頻蒔しきまき、串刺くしざし、生剥いきはぎ逆剥さかはぎ屎戸くそへ

許許太久ここだくつみ天津罪あまつつみりわけて、

国津罪くにつつみとは、生膚いきはだち、死膚しにはだち、白人しろひと胡久美こくみおのははをかせるつみおの

をかせるつみははをかせるつみははをかせるつみけものをかせるつみ昆虫はふむしわざはひ

高津神たかつかみわざはひ高津鳥たかつとりわざはひけものたほし、蠱物まじものせる罪、許許太久ここだくつみいでむ。

現代訳

 このような良き国にも幸せな人々達が犯した様々な罪が現れた。

天津罪とされるのは、畔放ちは田の畔を壊す罪。溝埋めは用水の溝を
埋める罪。樋放ちは水を送る管を壊す罪。頻蒔きは種を重ねてまく罪
。串刺しは他人の田に串を刺し占有する罪。生剥ぎは家畜の皮を生
きたまま剥ぐ罪。逆剥ぎは家畜の皮を逆側から剥ぐ罪。屎戸は屎を住
まいに等に撒く罪など。数多くの罪を天つ罪として区別を定めた。

つぎに国津罪として生膚断ちは生きてる人の膚を剥ぐ罪。死膚断ちは
死人の膚を剥ぐ罪。白人は皮膚が白い先天異常。こくみは大きなこぶ。
己が母犯す罪は自分の母親と通ずる罪。己が子犯す罪は自分の娘と通
ずる罪。母と子と犯す罪は女性とその娘と通ずる罪。子と母と犯す罪
は女性とその母親と通ずる罪。畜犯す罪は畜類と通ずる罪。昆虫の災
は蛇やムカデ等地を這う虫の災禍。高つ神の災は高い山の神がなす災
禍。高つ鳥の災は鳥がもたらす災禍。畜仆し蟲物する罪は畜類を殺し
呪術をする罪など、数多くの罪が出て来るであろう。

考察

この罪の詳細を連ねた部分は簡略版の大祓詞ではカットされています。

この天津罪は農業に関する罪が五つ並んでいて、しかも古事記でスサ
ノオが犯した罪がそのまま入ってるのに気付くでしょう。これは水田
稲作を重視していたのと同時に天孫族が縄文族が畑でしてた農業を破
壊した事を物語っているのです。

家畜の皮を剥ぐ場合も縄文族は感謝を捧げる手続きをして作法に則り
行ったのを天孫族は作法を無視した、だから罪なのです。

続く国津罪になるとますます理解に苦しむ事が並びます。

生きてる人や死人の皮膚を剥ぐ事、これは一体どういう状況なのでし
ょうか? 縄文族は共同体の仲間である証に入れ墨を入れていたので
す。天孫族は捕虜や死体を縄文族から奪い辱めるために入れ墨を剥ぎ
取ったと考えられます。だから深刻な罪なのです。

白人やこくみは外見差別ですし、自分の母や子を犯す罪はあり得る罪
なのかもしれません。
問題は次の母と子と犯す罪、子と母と犯す罪で、これはまず起こらな
い特殊なケースと思われるでしょう。

しかし鉄製の武器で武装した天孫軍と旧式の銅剣で武装した縄文軍が
正面から当たったら勝敗は明らかでした。この罪はまさにの戦闘勝利
後の天孫軍が一番起こしやすい状況なのです。

そして昆虫は這う虫で蛇を含めていて、出雲でも縄を蛇状にして信仰
されてたのを徐福が破壊して紛争になった記録があります。
高津神、高津鳥の災いも高い山を歩き信仰の対象とする縄文族への恐
怖と敵意を示しているのです。

以上、罪の内容で最も重要な点は天孫族が縄文族を侵略したための罪
だとおわかりいただけたと思います。だからこそ、天孫は部下達にこ
れらの罪を犯したとしても祓い清められるから心配いらないと申し渡
し、全軍の士気を保ったのがこの大祓詞の当初の目的だったのです。

仮に天孫族が武力でこの国土を征服したのが事実としても、私は天孫
や皇室を敵視はしません。
なぜなら私達は天孫族に日本語の言霊で縄文心を学ばせて日本人化し
て完全な仲間としているからです。

日本語の言霊の力はこの世で最も強い武器なのです。

後編では省略された太祝詞を補完した完成版をお伝えしてます ↓ 

ご精読ありがとうございました。