ひふみ祝詞とは
ひふみ祝詞の起源
ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか
うおえ にさりへて のますあせゑほれけ
これがひふみ祝詞です
三音、五音、七音の組み合わせで最後に二音足した47音です。
「一二三祝詞」と表記されることもあります。
冒頭の3字+5字+7字部分は数を数える部分で最も重要な部分です
ひ(一) ふ(二) み(三) よ(四) い(五)
む(六) な(七) や(八) こ(九) と(十)
この数える部分の起源に関連しているのではと考えられる記録があります。
物部氏の古書と推定される先代旧事本紀にある「十種の宝」の記述です。
これは三種の神器より古い十種の宝があった事を示しているのですが
現代語訳を読んでみてください。
天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。
瀛都鏡(おきつかがみ)、一つ
辺都鏡(へつかがみ)、一つ
八握(やつか)の剣、一つ
生玉(いくたま)、一つ
死反(まかるかえし)の玉、一つ
足玉(たるたま)、一つ
道反(ちかえし)の玉、一つ
蛇の比礼(ひれ)、一つ
蜂の比礼、一つ
品物(くさぐさのもの)の比礼、一つというのがこれである。
天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。
「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と
いってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。
このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」
これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。先代旧事本紀の世界 > 巻第三 天神本紀 より引用
どうです、ひふみ祝詞の秘密が語られていますね。
効果について数を数えてこの宝を振るわせれば痛むところが治るばかりか、死者も生き返るとまで述べてますね。
どんだけ強力な霊力なんだよと思えますね。
私たちはさすがに十種の宝は持ってませんが、この言葉を唱えればその霊力にいくらかあやかれるだろうという発想が成り立ちます。
数を順序良くひとつずつ唱える事は、治癒の霊力を招き寄せて実現することになる。
これがひふみ祝詞の最重要ポイントなのです。
これだけ強力なので、実は現代通用してる漢語の数詞で普通に「いち、にー、さん、しー、ごー、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう」と唱えてもそこそこの効果はあるそうです。
しかし古来の発音を使えばより正確に呪力を呼び寄せる事ができるのです。
そこでひふみ祝詞を古来の発音を生かし簡略にしたひふみ祓(はらへ)というものもあります。
ひと ふた み よ いつ むゆ なな やは ここの とお なりけりや
ふるべ ゆらゆらと ふるべ
また、よく似たあめつちの数歌というのもあります。
ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり
ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり
ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり もも ち よろづ
さて十までの数え方は皆さんご存知の通りですが、続きはその上の桁を数えていきます。
も は百ももちの「も」(百)
ち は千ちちの「ち」(千)
ろ は万よろずの「ろ」(万)
ら は億(億)
ね は兆(兆)
こうして数が増えて行くさまに霊力の高まりを重ね合わせたのでしょう。
ひふみ祝詞の唱え方
実際に石上神宮では大祓詞、十種祓詞、ひふみ祓詞をセットにして
唱えておられて十種祓詞は上の内容をそのまま伝えているものを
唱え、その後に先ほど述べたひふみ祓を続けて
「ひふみ よいむなや ここのたり ふるべ ゆらゆらと ふるべ」
と唱えます。(神社により伝承のためか若干違うようです)
太平洋戦争末期に岡本天明の自動書記によって書かれた日月神示と
いう書があります。聖書の黙示録的な終末思想部分もあり、すべてを
受け入れるのは危険かと思われます。しかし真実をついてる記述もあ
るのでその部分は個人の判断で取り入れるのも有用かもしれません。
この黒鉄の巻39にもひふみ祝詞の作法があり、それによると手拍子を
入れながらあげるように書いてあります。
神社で宮司さんが拍手を打ちながら祝詞を上げてるのを見ましたが、
普通の柏手のように構えて打つと間に合わないのでおにぎりを握るよう
な手で素早く打ち鳴らしていました。
では実際の唱え方です。〇は拍手を表します。
冒頭に拍手が三つ入ったところから唱えます。
三音、五音、七音の組み合わせをそのかたまりで一つ無音区切りを入れ
最後の「れけ」のみ「れーけー」と伸ばします。
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
、、、ひふみ よいむなや こともちろらね
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 〇
うおえ にさりへて のますあせゑほれーけー
ひふみ祝詞の意味
ひふみ祝詞の冒頭は数が増えて行くさまに霊力の高まりを重ね合わせたと言いました。
ひふみ よいむなや こともちろらね
ここでカタカムナ五首の「ひふみよいまわりて」を思い出された方もいたでしょう。
数部分では同じように捉えてもよいかもしれませんが、続く部分でカタカムナは宇宙論的な
哲学へと記述が飛躍していきます。
私の以前の記事カタカムナの世界観を眺めてみるの章からおさらいすると
限定された宇宙球はタカマであり、星座のようにまとまった場はク
ラ、太陽系はヒコネクラである。アマが結球となるとマリであるがそれらは目には見えぬ潜象状態で
マワリテメグル自転公転をし、宇宙全体に渦巻いている。
環境条件が整うとマリはイカツと呼ばれる電気粒子となって現象界
に存在を気付かせ、マクミやカラミと呼ばれる磁気や力の相を見せ
て、物質や天体をカタチづくる元素へ変遷してゆく。カタカムナで瞑想する より引用
という感じでカタカムナは日常的実用的な意味ではなく、抽象度の高い宇宙構造、原子の
成り立ちまでトンデしまうので、一般人には理解できない部分が多いと思われます。
このひふみ祝詞ではそこまでの突込みはなさそうです。
ひふみ よいむなや こともちろらね は
数が増えてゆくにつれ神霊力の強く現れる不思議よ
ぐらいの意味かと思います
一方、ひふみ祝詞は数部分を過ぎるとなんとなく生活に即した言葉が繋がっているように
感じるのは私だけでしょうか?
しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか
うおえ にさりへて のますあせゑほれけ
もちろん現代では通用しない古代和語の部分が多いですが、うおは魚だろ、のますは飲ます
でしょと日本の言葉であるのでニュアンスがたどれそうに思います。
正確な古語がわからないことを良い事に思い切り主観で訳してみますと
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか は
初めから終わりまで付ききりで世話したのではないが
それなのに田には久米が豊かに実ってくれた
うおえ にさりへて のますあせゑほれけ は
魚を獲って煮炊きご馳走にして
仲間に酒を飲ませて汗の苦労も忘れて寿ぐことめでたし
という風にごくありふれた農耕と漁業による豊作への感謝が後半部のテーマなのではと思います。
すると前半部の数の増大は、田に種を蒔いてやると稲が育って種の何倍もの実りをもたらす事への
神秘と感謝なのだと納得されて、全体がしっかり結びついて受け取れると思われます。
いかがでしょうか?
ご精読ありがとうございました。
ディスカッション
コメント一覧
≪…ひふみ祝詞の起源…≫を、十進法の基における西洋数学の成果の符号からの送り返しモノとして観てみる記事を見つける。
もろはのつるぎ
わかっているようでわかっていない事は山ほどある。自分は知っていると思っていても実は見当違いの理解をしている事もおそらく山ほどある。
(1) —————————————
サン=テグジュペリの「星の王子さま(Le Petit Prince)*1」の冒頭で主人公が6歳の頃に書いた絵のエピソードが出てくる。〔*1 内藤濯の訳語〕
もろはのつるぎ_f0171581_22395522.png
主人公がこの絵を大人に見せて「こわいでしょう?」と聞いてまわると、大人は皆、「どうして帽子がこわいの?」
〔以下の引用は青空文庫「あのときの王子くん(Le Petit Prince)大久保ゆう訳」から〕
「この絵は、ぼうしなんかじゃなかった。ボアがゾウをおなかのなかでとかしている絵だった。だから、ぼくはボアのなかみをかいて、おとなのひとにもうまくわかるようにした。あのひとたちは、いつもはっきりしてないとだめなんだ。」
「おとなのひとは、ボアの絵なんてなかが見えても見えなくてもどうでもいい、とにかく、ちりやれきし、さんすうやこくごのべんきょうをしなさいと、ぼくにいいつけた。というわけで、ぼくは6さいで絵かきになるゆめをあきらめた。さくひんばんごう1と2がだめだったから、めげてしまったんだ。おとなのひとはじぶんではまったくなんにもわからないから、子どもはくたびれてしまう。いつもいつもはっきりさせなきゃいけなくて。」
「すこしかしこそうなひとを見つけると、ぼくはいつも、とっておきのさくひんばんごう1を見せてみることにしていた。ほんとうのことがわかるひとなのか知りたかったから。でもかえってくるのは、きまって「ぼうしだね。」って。そういうひとには、ボアのことも、しぜんの森のことも、星のこともしゃべらない。むこうに合わせて、トランプやゴルフ、せいじやネクタイのことをしゃべる。するとおとなのひとは、ものごとがはっきりわかっているひととおちかづきになれて、とてもうれしそうだった。」
(2) ——————————————
下の数字列の中に「3」はいくつあるでしょう?
555553555553555555553555555555555555355555555553
555555555555555355555555535555553555555555555555
普通の人は目がチラチラしながら数えて、数秒から十秒近くはかかるのではないだろうか?見落としたりカウントを間違えてしまうかもしれない。
「数字に色がついて見える」共感覚の持ち主なら正解をほぼ瞬時に答えることができる。彼(彼女)には、例えば次のように見えるから
555553555553555555553555555555555555355555555553
555555555555555355555555535555553555555555555555
(3) ——————————————
NHKのチコちゃんで四つ葉のクローバーを探すのを放送していた。簡単に見つける人はあっという間に手にいっぱい集められるのに、そうでない人は場所を変えても見つけられない。私は後者で、悔しいことに今までトライして見つけたことが一度もない。20cmや30cm四方の緑の群落を目でサーチしたとき前者には特別な見え方がするのだと思っている。
(4) ——————————————
ラマヌジャンというインド人の数学の天才がいた。
病床の彼をケンブリッジ大学のハーディが見舞ったときのエピソード。
ハーディが
「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない数字だったよ」と言うとラマヌジャンは即座に次のように答えたという。
「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」
実は、1729は次のように表すことができる。
1729 = 123 + 13 = 103 + 93
ラマヌジャンは1729が
A = B3 + C3 = D3 + E3
という形で表すことのできる数Aのうち最少のものであることを即座に指摘したのである。ラマヌジャンにとって「すべての数字は友達」のようなものだった。
(5) ——————————————
数学者の岡潔は随筆集「春宵十話」のなかで書いている。
「人の中心は情緒である。(中略)数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。」
「数学上の発見には、それがそうであることの証拠のように、必ず鋭い喜びが伴うものである。この喜びがどんなものかと問われれば、チョウを採集しようと思って出かけ、みごとなやつが木にとまっているのを見たときの気持ちだと答えたい。」
「大学三年のときのこと、お昼に教室でべんとうを食べながら同級生と議論をして、その終わりに私はこういった。『ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている』すると、傍観していた他の一人が『ずいぶん変な数学ですなあ』と突然奇声を上げた。私も驚いたが、教室の隣は先生方の食堂になっていたから、かっこうの話題になったのであろう、あとでさまざまにひやかされた。ところが、この計算も論理もみな妄智なのである。私は真剣になれば計算がどうにか指折り数えることしかできず、論理は念頭に浮かばない。そんなことをするためには意識の流れを一度そこで切らなければならないが、これは決して切ってはならないものである。計算や論理は数学の本体ではないのである。」
(6) ——————————————
和歌山県には昨年初めて行った。初めて耳にするクマゼミの騒音のような鳴き声にビックリした。和歌山市と有田市の往復だったが山頂まで広がるミカン畑とその傾斜には驚いた。何十年も「Arita」と読んで疑わなかったが「Arida」と濁ることを知って愕然とした。十代の頃たしか田辺だったか全く見知らぬ同世代の男性から手紙をもらった。数学についての内容だったと記憶している。返事は出さずじまいだった。
有田川町は有田市の東南東に位置し有田川の上流になる。明恵上人の生誕地でもある。有田川町では絵本コンクールを実施していて、2019年(第9回)のコンクールの作品がネットで読めるようになっている。
(7) ——————————————
「もろはのつるぎ」はそのコンクール受賞作品の1つ。
私は大人になってから、見ている「漢字」が字画ごとにバラバラに分解するというイメージが強くなって困ったことがある。たとえば「字」という漢字はそれはそれで読めるのだが、ふとした瞬間に「ウ」と「子」に分解するという奇妙な感覚である。
「奇」が「大」と「可」に。「妙」が「女」と「少」に、という具合。それぞれが自己主張をし始めるような感覚。
だらか「もろはのつるぎ」の内容は感覚的に何となく理解できる。
線をひっぱったり曲げたりつなげたりするのはAdobeの「Illustrator」のベジェ曲線の「アンカーポイント」や「コーナーポイント」「クローズパス」などの操作に似ています。「Illustrator」は見かけは「お絵かきツール」、でも奥では膨大な数学的な処理が行われている。
by nsb01474