勝ち負けを捨てよ!
勝ち組、負け組がつくられる背景
世の中には勝ち組、負け組という判断基準があるように見えます。
私たちは人生の様々な時点で勝ち負けを意識するように仕向けられて
いるようです。
たとえば入園試験、入学試験、期末試験、模擬試験、卒業試験、資格
試験、入社試験、昇進試験などのいろいろな試験。エンターテイナー
やアーティストの受けるオーディション、大賞。
通信簿、成績表の評価、勤務評定。
徒競走、マラソン大会、いろんな競技会やクラス対抗試合、弁論大会。
テレビ番組の二人三脚や縄跳び、仮装やクイズ競争、カラオケ選手権、
ギネスに挑戦なんて種類にもうキリがなさそうです。
まだありますね、幼稚園や学校の学芸会のキャスティング、学園祭や
アイドル、好感度などの人気投票系のコンテスト。
イベントのバレンタインなんて子供のうちは無邪気なもんだけど、成
長につれて目の色が変わり必死感、悲壮感さえ漂います。
交際を申し込む、プロポーズ、そこに家系調査が加わったり。伴侶や
子供がターゲットの最先端遺伝子検査。健康診断や精密検査。
人に関わるイベントだけでもこれぐらいあって、その時々に勝ち負け
を意識させられています。その結果、勝ち組と負け組の間に線が引か
れるだけでなく、そもそも人間に勝ち負けを強いることが社会的に当
然な制度だと肯定されてしまう。そして自分の価値を見失い、自由に
好きなことをする発想まで忘れてしまうのです。
拡大する勝ち負けが勝ち依存症者を産んでいる
さらにゲームは勝ち負けをメインにして子供からいい年をした大人
までをトリコにしています。作り手プロデューサーの立場から見たら
ステージレベルが延々と上がるもののゲームしてる人間はささやかな
勝利の快感欲しさにほぼ同じ事を延々と繰り返しているだけです。
中には暴力的な行為を勝ち負けのスタイルにしてるゲームもあります。
社会は勝ち負けの与える悪影響なんて一切顧みてないし、結果として
いよいよ勝ち負けが評価基準として権力すら持ってしまい、人々にも
その基準に従うように刷り込んでいるのです。
人生の多くの場面で何度も何度も勝ち負けを強制されてきた人々は全
勝できなければ自分も負け組かもと思うようになります。
さらにスポーツの輝かしいスター選手の活躍がマスコミによってこれ
でもかと伝えられて、私たちは一般人には真似しようもない勝ち組の
鍛え抜かれた技と超人的な精神力に涙を流して感動するのです。
それ自体はよいことだと思いますが、気になる点もあります。
自分は運動不足で酒も食べ物もスイーツも好きなだけ摂取しまくり
スター選手の勝利に自分を勝手に重ね合わせているだけですから、
ストイックに戦っているスター選手から見たら図々しい限りです。
人々はスター選手の勝ちっぷりを喜んでいるだけのいわば勝ちドラ
マ依存症になっているのです。
評価の基準は単純な勝ち負けではいけない
評価の基準が単純な勝ち負けではほとんどの人は負け組に弾かれて、
心理的な悪影響をしかも深い部分に植え付けてしまいます。
そうではなくて誰もが自分の価値を認めてもらえるような柔軟な
判断基準を持って自由な成長を促す仕掛けが必要なのです。
たとえば徒競走でゴールした後に、君は手がきれいに伸びていてよか
ったよとか、君は皆に微笑みを配りながら走ったねとか、あの人の応
援が聞こえてうんと速くなったねとか、一見どうでもいい部分を褒め
てあげるのです。その一番の効用はタイムだけで二番手以降の子を切
り捨てたりしないという点なのです。
そもそも人間は何かに勝つために生まれてくたんじゃないってことを
しっかり確認して、子供にもそこを伝えなきゃなりません。
大きくなるにつれ、社会に出るにつれ、お前はいろんな試練に会い、
その結果苦悩を抱えることもあるだろう。だけどな、それはお前の魂
が成長するために必要だからそういう面倒な試練があるんだ。
いいかい、勝つか、負けるかなんて結果はどうでもいいんだ。
向き合った仲に生まれる敬意と平等
負けたら、卑屈になることなく勝った人の素晴らしさを素直に認めて
あげなさい。
勝ったら、負けた人に言ってあげなさい。今は悔しいだろうけど勝ち
負けはルール上の書き方にすぎないんだよ。あなたの頑張りは背が恵
まれてた私の頑張りより大きいに決まってるじゃん。頑張りではあな
たの方が勝ちなんだよ!
お前にはわかるはずだよ。
大事なのは勝ち負けの結果ではない。勝ち負けを分かち合った仲に生
まれる敬意と平等こそがお前の人生の通信簿で光輝くんだ。
やがていつかお前も人生を卒業して神様の元に帰る時がくる。
その時、人生の通信簿にたくさんの輝く思い出が詰まっているように
生きるんだ。
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