継体天皇は新王朝なのか?

継体天皇は即位前の名は男大迹王ヲホドノオウ。乎富等王、乎富等大公王とも。応神天皇5世の来孫とされ、『日本書紀』の記事では越前国、『古事記』の記事では近江国を治めていたとされます。
皇子を残さずに崩御した武烈天皇の後を受けて、前触れもなく表舞台に登場した謎の大王継体天皇。
ここでは果たして継体天皇は新王朝なのかをテーマに、25代武烈天皇の後に生じた明らかな皇統の断点はどのようなものだったのか、26代継体天皇がいかにして次期天皇に推戴されたのかについて考察しますが、最初に武烈天皇より四代前の21代雄略天皇に遡ってみます。
1雄略天皇と武烈天皇
なぜ21代雄略天皇に注目するのかと疑問の声が聞こえて来そうですが、ここで理由を明らかにします。
それは21代雄略天皇と25代武烈天皇があまりにも似ているからです。
まず日本書紀の和風諡号が呼応してます。
雄略天皇の和風諡号は大泊瀬幼武天皇おおはつせ わかたけのすめらみこと
武烈天皇の和風諡号は小泊瀬稚鷦鷯尊おはつせの わかさざきのみこと
居宮が泊瀬朝倉宮と泊瀬列城宮なんだから当然なのではと思うかもしれませんが、居宮を諡号に入れること自体が大変珍しいのです。しかも一方が大で、一方が小という呼応になっていて作為的な意図を感じさせます。
さらに泊瀬という単語はもう一人、崇峻天皇に泊瀬部天皇として使われています。前記二人は残虐非道の天皇と記されている一方、残る崇峻天皇は在位中に臣下により暗殺された天皇です。
日本書記は権力者が対外向けに編纂した書物であるという客観的視点から俯瞰すると、この泊瀬という号は一種の忌むべき事案の目印として使われた可能性があるように感じます。
今先走りして書いてしまいましたが、雄略と武烈の二天皇は揃って残虐非道の性格であったことが日本書紀に記されています。これは都合の悪いことは伝えないNHKしか見ない盲目的皇室崇拝者には信じられないかもしれませんが、確かに日本書紀に書かれていることです。
日本書紀によると雄略天皇の先帝安康天皇が皇后の連れ子眉輪王に暗殺されました。
事件を知った大泊瀬皇子は八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで葛城氏の円大臣邸に逃げ込んだ坂合黒彦皇子と眉輪王を円大臣と一緒に焼き殺しました。さらにライバルの市辺押磐皇子と弟の御馬皇子みまのみこを狩りに連れ出して殺しました。雄略天皇が皇子たちを次々と滅ぼしたことが皇統断絶の危機を招いたとも言えます。
葛城氏の凋落が後の継体天皇支持勢力拡大につながったことに留意しておきましょう。
こうして天皇の地位に即位すると、葛城氏に続いて、最大の地域豪族であった吉備氏に対しても反乱鎮圧の名目で軍を送り、吉備下道臣前津屋きびのしもつみちのおみさきつやと吉備上道臣田狭きびのかみつみちのおみたさを討伐しました。
残虐エピソードはまだ続きます。
他にも播磨国の文石小麻呂、伊勢国の朝日郎などを討伐しました。そのため地方豪族の前方後円墳が急に消えていきます。
また猪を射殺せない気弱な舎人がいました。すると雄略天皇は斬り殺そうとしました。この時は皇后が「今猪を食したいからといって舎人を斬られますのは豺狼さいろうと何も違いません」と諌めて思い止まったのです。
また決して刃先を誤らないと評判の木工の匠、黒縄職人猪名部真根に対して雄略天皇が噂は本当かと問うと「決して誤らない」と答えまし。そこで采女を呼び集めてその衣服を脱がせて褌姿にさせて猪名部の面前で相撲を取らせました。その様子を見た猪名部真根は思わず刃先を誤ってしまったので、雄略天皇は猪名部を死罪にしようと物部に申し渡しました。すると黒縄の匠の技が失われることを惜しんだ仲間が和歌を詠み、それを聞いた天皇は恩赦を与え解放したそうです。
これら数多の所行から大悪天皇と記されています。
一方、武烈天皇も想い人の影媛が平群真鳥大臣の子の平群鮪(へぐりのしび)と先に恋心を通じていたと知ると大伴金村を遣わして鮪を誅殺させ、ほどなく平群真鳥大臣をも討伐させてます。
さらに即位後も本当に日本書紀にこんなことが書いてあるのかと信じられないような残虐事件がこれでもかというほど列挙されています。
妊婦の腹を裂いて胎児を見たとか、人を木に登らせて木を切り倒させて登った者を落として殺して面白がったとか、同じく木に登らせた者を矢で射殺したとか、裸にして板に座らせた女に、馬の交尾を見せて性器を濡らした女を殺し、濡れなかった女を奴隷に召し上げたとか。まがりなりにも公式歴史書の筈なんですが………。
まあ、こういうことが書けたのはお手本にした中国の史書に残虐な記述がたくさんあったからなのですが。
そして二人とも子孫にあまり恵まれてません。
雄略天皇の男子は磐城皇子と星川皇子と白髪皇子がいますが、磐城皇子と星川皇子は討伐した吉備上道臣田狭から略奪して得た妃の子だったため初めから信頼していなかったようです。
残る末子の白髪皇子が生まれつき白髪であったため霊異を感じて皇太子に立て、次の清寧天皇となったと記されています。劣性遺伝子によるアルビノの発現でしょうが確率は1万から2万人に1人だそうです。それが皇子に起きたのでしょうか。
そして私的に特筆したいのは清寧天皇の古事記和風諡号に白髪大倭根子命しらかのおおやまとねこのみことと、磯城王朝で使われていた大倭日高見国の大王を指す称号「大倭根子」が記されていることです。
その後の天皇史で、大倭根子が使われるのはもう一人いて、なんと記紀の実質的な制作指揮者である持統天皇の日本書紀和風諡号大倭根子天之広野日女尊です。彼女は天智天皇と蘇我氏の間に生まれて幼少時に一族を殺され、大化の改新で功労あった祖父の蘇我倉山田石川麻呂は一時、右大臣になったものの結局は中大兄皇子に攻められ自殺しました。
持統天皇はこの心も休まらない大和朝廷の在り方を夫天武天皇と共に改善したくて大倭根子の称号を冠したのでしょう。そこで圧倒的な支持のあった卑弥呼あるいは倭迹迹日百襲姫にあやかって、本来男神であった天照大神あまてるおおかみを女神の天照大御神あまてらすおおみかみに替えることで、縄文日高見のように太陽と万物を崇敬し、生命を大事にする古き善き日本に戻そうとしたように思えます。
清寧天皇に話を戻しますと、即位した清寧天皇も子がなくて悩まされていたところ、父雄略が即位前に暗殺していた市辺押磐皇子の子で行方不明になっていた億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見されたのです。
ここでも皇統が途絶える手前で偶然にも有資格者が見つかったわけで、継体天皇の時の予告が書かれてるような気分になります。
清寧天皇はこれを非常に喜び、天がこの二人を恵んでくださったのだと言って勅使を立て明石に迎えに行かせます。そして二人を宮中に迎え入れて皇子と認め、億計皇子を太子に立てたと記します。この二人の皇子は互いに皇位を譲り合ってなかなか即位しなかったために、一時的に彼らの姉である飯豊青皇女いいとよのあおひめが皇位に就いたとありますが、天皇としては記録されなかったようです。
尚、『古事記』では、億計・弘計王の姉ではなくて叔母と伝えます。また二皇子の発見は清寧天皇崩御後の出来事としています。
武烈天皇にいたっては一人も子がなかったとあります。側室も一人もなかったようです。当時の風習からは考えにくいですね。
これらの子孫の縁の弱さを因果応報の罰が当たったんだろうという考え方もあるかもしれませんが、それよりはむしろ中国古代に生じた易姓革命(殷の紂王の悪逆に対して、天の意志で周に交替した)に始まる悪逆非道の皇帝が現れると天の意志により次の王朝に取って替わられるという実話パターンを日本書紀の著者が知っていて日本でもこのパターンを採用して歴史を脚色した可能性は案外大きいのかもしれません。
雄略天皇については稲荷山古墳出土鉄剣の銘文にあるワカタケル大王であることが有力視されていて、倭王武の上表文も同年代に宋に遣わされて宋書倭国伝には「興死して弟武立つ」と記されているなどとも伝わり、興が安康天皇、武が雄略天皇と見立てると時代と辻褄が合う。とすると雄略天皇は実在である可能性が高いように思われます。
一方、武烈天皇については日本書紀に悪逆非道の記述が詳細であまりに微に入り細に入りすぎて逆にこの詳細ぶりが他の天皇の逸話と比べて不自然なものになっていることに加えて、古事記での武烈天皇の記事が極端に内容が乏しい記事内容で、悪行にもひとつも言及がないことから、こちらは王朝交代の前提理由付けとして悪役を割り振られた架空の天皇なのではという推測まで起きてきます。
それを補強する証拠がさらにありました。
雄略天皇の次の清寧天皇も子がなくて、父雄略が即位前に暗殺していた市辺押磐皇子の子億計王(後の仁賢天皇)と弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟が発見された話の内容もおかしいのです。
ここで『古事記』では歌垣で億計王の本命だった美人を平群志毘しびが横取りしようとする場面がかなりの分量で記されていて、二皇子は話し合い翌朝に志毘しびの家を取り囲み、またたく間に殺したと記されているのです。
ところが日本書紀では二皇子の次の武烈天皇の出来事として平群鮪しびを誅殺させたとあるのです。志毘と鮪は記紀による漢字の違いであり同一人物でしょう。ここに大きな矛盾が生じているのです。
さらに武烈天皇の陵にも謎がありました。
開化、崇神天皇以降、天皇陵は古墳時代通じて前方後円墳が殆どですが、暗殺された安康天皇は方丘、悪逆非道とされた雄略天皇は円丘、武烈天皇は山形で簡易な作りになってるようです。古墳時代から外れますが暗殺された崇峻天皇は円丘です。
2継体天皇はなぜ選ばれた?
最初の候補は倭彦王
『日本書紀』によれば、506年に大変な暴君と伝えられる武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が大慌てでいろいろと協議し、皇統の手掛かりを探し出して、丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)を見つけました。
この倭彦王を次期天皇に推戴しようとして威儀を正した護衛勢を伴って現地の人々に「先の天皇がお隠れになったのだ。そこでこの倭彦王様を探している、どこにいるのか」と尋ね回ったのでしょう。たが、倭彦王は武烈天皇がライバルを軒並み殺害した悪虐非道の天皇だと知っていました。そして自身は皇族といっても仲哀天皇の5世の孫という忘れ去られても仕方ない格下なのをはっきり自覚していたのでしょう。だからまさか己に天皇推戴という栄誉が訪れるとは夢にも思わず、地元から聞いた話と大和から派遣されてきた護衛勢の姿を見て「これは武烈天皇が死を偽って、自分を討つために差し向けた偽計に違いない、余のような小者まで謀殺にかけようとは非道の極み」と恐れて山の中に隠れ入り行方知れずとなってしまったのです。
なぜ、わざわざ越前という大和から遠く離れた地にいた人物が天皇になれたのか
倭彦王が想定外の逃亡を遂げたのですから、推戴活動を進めていた有力豪族同は困り果てたことでしょう。
その時、大伴金村が「男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。(男大迹王、性慈仁ありて、孝順ふ。天緒承へつべし。男大迹王は、慈しみ深く孝行篤い人格である。皇位を継いで頂くにふさわしい)」と言い出したのです。大伴金村は武烈天皇のもとで平群真鳥大臣と平群鮪の親子を誅殺した悪役ですから、群臣は強く反対を唱えることは出来なかった可能性もあります。
応神天皇からの系図は記紀には詳しくありませんが、それより古い7世紀頃に成立したとみられる上宮記に記されているものを引用すると以下になります。
凡牟都和希王 おほむつわけのおほきみ 応神天皇
↓
若野毛二俣王 わかのけふたまたのみこ
↓
意富々䓁王 おほほどのみこ (太郎子 おおいらつこ)
↓
乎非王 をひのみこ
↓
汙斯王 うしのみこ (彦主人王 ひこうしのおう)
↓
乎富䓁大公王 をほどのおほきみのみこ (男大迹王 をほどのおう)継体天皇
ただ15代応神天皇とは11代の隔たりがあるので、継体天皇系が5代だとすると一世代40年ぐらいの長命で繋がなければならないか、あるいは中間に挟まれるべき人物が五代に収めるために省略され可能性も残ります。
とはいえ継体天皇の実在は疑いようがありません。
佛教大学歴史学部教授の堀 大介氏はあわら市の横山古墳群の出土品から継体天皇が尾張の豪族から妻を娶った事実を裏付けていると推理されました。
永平寺町の二本松山古墳については石棺が2基ありますが片方は遺体がありません。当初、継体天皇の父・彦主人王の円墳墓として築かれたが、彦主人王が新羅征伐に参加して戦死したため副葬品のみで遺体がなかった可能性があるそうです。
継体天皇が即位した後に母・振媛を追葬し前方後円墳に拡張したと推理されてます。
そして彦主人は継体天皇が幼いときに亡くなったため、母の振媛は近江では育てられないため越前に帰ったらしいです。これが継体天皇の出身地が日本書紀と古事記で違う理由のようです。
出典: 佛教大学通信教育課程クロストーク
ということで私の推理を加えれば、継体天皇の父・彦主人王は大伴金村の父大伴談かたりの時代に新羅征伐に赴き、司令官談と共に戦死したのではないかということです。
大伴金村は武将彦主人王の名前と故郷を知っていたので、その子の男大迹王を見つけ出すと、これは強い関係を築けるぞと喜び大抜擢したのだと推察します。
逆に男大迹王からしても父彦主人王の忠誠を覚えてくれて抜擢されたのなら進んで大役を引き受ける気になったに違いありません。もちろん大人ですから、即答で天皇の地位に飛びつくなんてせずに、何度も遠慮したのだが大伴金村が根気強く口説き続けて最後は了承したのだという形になることは当然です。
応神天皇の5世孫の系図が本物ならば当然、応神からの父系が保たれたことになります。
しかし、過去記事「欠史八代の真相」をよく読めば気付いていただけると思いますが、磯城王朝も物部王朝も詰まるところ徐福の父系なので、万世一系の日本の天皇と呼ぶには残念ながら実体が違うことになります。
逆に系図に創作が入り、その系統が徐福父系から断絶していれば、継体王朝は安心できる純日本人の新王朝になったと言えるかもしれません。
実際の男大迹王への即位要請は以下のようです。
当時は有力豪族の合議制で政権運営がなされる時代であった。そこで大伴金村が次期天皇に男大迹王を推戴することを発議する。既に倭彦王で失敗していた群臣は取り敢えず交渉してみようという事になり、越前国三国(現福井県坂井市三国町あたり)にいた応神天皇の5世孫の男大迹王を迎えに行く。
臣・連たちが節の旗(せちのはた)を持って御輿を備えて迎えに行くと、男大迹王にはなるほど大王の品格があった。群臣はかしこまり、天皇即位を引き受けてくれるように願い出た。しかし、男大迹王は群臣のことを疑っており、天皇即位を承知しなかった。
群臣の中に、男大迹王の知人である河内馬飼首荒籠がいた。荒籠は密かに使者をおくり、大臣・大連らが男大迹王を迎え入れる本意を詳細に説明させた。使者は3日かけて説得し、そのかいあって男大迹王は即位を決意し、大和へ向けて出発したという。
その後も、男大迹王は自分はその任ではないと言って何度も即位を辞退するが、大伴金村らの度重なる説得を受けて承諾。
翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位しました。正室として武烈天皇の姉にあたる手白香皇女(仁賢天皇皇女・雄略天皇外孫)を皇后とするように条件を出されました。これは継体天皇の出自に対する不信を払拭するために付けられた条件と考えられます。
しかし、その後19年間にわたり継体天皇は大倭入りが出来ませんでした。
つまりこれは男大迹王に対して有力豪族の総意は得られていなかったということで、私が推理したように、大伴金村は父大伴談と男大迹王の父の彦主人王が共に新羅征伐で戦死したという強い結びつきによって継体天皇に奉じたものの、いろいろな難癖を付けられたり、邪魔をされて居宮を奈良に築くことが出来なかったということでしょう。
居住した宮の変遷は
511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)
518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)
526年にようやく磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に入りました。
翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心しています。
3晩年の暗殺説
ここまで大変な経緯があって即位し、20年近くかけて奈良に入った継体天皇でしたが、話はそこでハッピーエンドとはなりませんでした。
宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵として治定していましたが、どうやら年代が違うようです。実は高槻市にある今城塚古墳が本物のようで、地元では「継体大王の真の陵墓と考えられる」と公式に述べています。公園化された今城塚古墳公園は西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350メートル・総幅約360メートルを誇り、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。天皇陵でありながら古墳の中を自由に歩きまわれると人気になっているようです。
しかし、一番重要な点はそこに三種類の石棺が埋葬されていたと推測されることです。
これは一体何を意味するのでしょうか?
すると恐るべき記述が見つかりました。
『日本書紀』の注釈に、『百済本記』(散逸)辛亥の年に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったという箇所が引用されてます。
「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」
訳文『百済本紀』には次のように記されている。辛亥(しんがい)年の3月、軍は安羅(あんら)に進軍し、綺陀(きた)城に陣を敷いた。同月、高句麗では安王が暗殺され、また、日本の天皇が皇太子および皇子と共に崩御したとの報せも届いた。この記述に基づけば、当該の辛亥年は(在位)25年に相当する。
皇太子勾大兄皇子と皇子檜隈高田皇子の皇位継承については継体天皇が越前から天皇に即位する際に大伴金村や有力者と約束を交わしてあったようです。
ところが継体二十五年の531年、なんらかの政変が起きて継体天皇と、尾張目子媛との間に生まれた皇太子である勾大兄皇子(安閑天皇)と皇子檜隈高田皇子(宣化天皇)の三名がほぼ時を同じくして殺害された可能性を示唆しているのです。
この場合日本書紀でそれぞれ在位4年間の事跡があるとされた安閑天皇と宣化天皇が実は即位していないことになります。
一方で、継体天皇と仁賢天皇の手白香皇女との間に生まれた天国排開広庭尊(欽明天皇)は無事皇位を継承しており、皇統は継体天皇から今も続いている体裁になっているのです。
『上宮聖徳法王帝説』(弘仁年間成立)と『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』(天平19年成立)には「欽明天皇7年の戊午年」に百済の聖明王によって仏教が伝えられたと記されていますが、『書紀』の年記によればこの年は宣化天皇3年(538年)であり、欽明朝に戊午年が存在しないのです。
しかし仮に継体崩御の翌年に欽明が即位したとするとちょうど7年目が戊午年に当たることとなり、矛盾が解決されて有力な傍証となります。
とすると本来、継体天皇は尾張目子媛の産んだ皇太子、皇子に継がせたかったのだが、有力豪族の中に反対する者がいたといことになります。
現代の遺伝の観点からはいずれが継承しても継体天皇の父系で同等なのですが、当時の豪族の意識としては母系社会を重視した母方を優先されてたのかもしれず、仁賢天皇の手白香皇女(古事記表記では手白髪郎女)の産んだ皇子こそが正しい血統だと主張しての暴挙があったと推測されます。
三顧以上の礼をもって即位を乞われて天皇を引き受けたのに、最後に詰まらぬ言いがかりを付けられて皇太子皇子を亡き者にされて継体天皇はさぞ失意のまま人生を閉じたのでしょう。合掌。
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4私の妄想
さて、ここからは私の妄想です。日本書紀は絶対だという学者様は健康維持のために自主退場してください。
最初に持統天皇に見せられた日本書紀古事記の草案はこうだったかもしれません。
雄略天皇 残虐非道 在位23年
清寧天皇 真面目だが凡庸 在位4年
顕宗天皇 雄略に殺された皇子の子で弟 在位4年
仁賢天皇 雄略に殺された皇子の子で兄 在位12年
継体天皇 マレビトのように現れたが悲惨な最期 在位28年
欽明天皇 天国排開広庭天皇 在位40年
草案には武烈天皇の章がなく、安閑と宣化も即位してないので章がありません。
持統天皇は顕宗天皇と仁賢天皇の兄弟が互いに譲り合い仲が良い様子を読んで、夫天武と一緒に皇子たちを集めて仲良くすることを誓わせたのを思い出し涙を流したでしょう。結局、持統は才覚で劣る自分の皇子のために大津皇子を死なせ、高市皇子にも忖度を迫ったのでした。
そして乞われて即位したのに最後は皇子と共に死に追いやられて軽々しく扱われてる継体天皇に、持統天皇は花を手向けようと考えついたのです。
それが日本書紀に易姓革命の思想を導入することでした。雄略天皇をモデルにもう一人のもっと残虐非道な架空の天皇を登場させ殷の紂王役をさせることで(実際漢籍をコピペしたような文章です)、そこで天により王朝が変わったことを明確に宣言しようと考えたのです。
さらに清寧天皇の諡号を継体天皇の皇后手白香皇女、手白髪郎女を思い起こさせる白髪大倭根子命とすることで、新たに追加される残虐非道の武烈天皇の次帝が大倭日高見国の大王だという宣言を暗号に込めたのです。白香を白髪にしてしまうとは持統からの怒りを感じますね。
さらに持統は暗殺された継体天皇の皇子二人を天皇になったと書くように命令したのです。
そして完成した実際の日本書紀の項目は以下でした。
雄略天皇 大泊瀬幼武天皇 残虐非道 在位23年
清寧天皇 白髪武広国押稚日本根子天皇 白髪大倭根子命 生まれつき白髪 在位4年
顕宗天皇 弘計天皇 雄略に殺された皇子の子で弟 在位2年
仁賢天皇 億計天皇 雄略に殺された皇子の子で兄 在位10年
武烈天皇(新設架空)小泊瀬稚鷦鷯天皇 残虐非道 在位8年
継体天皇 男大迹天皇 応神天皇の5世孫 皇后は手白髪郎女 在位24年
安閑天皇(新設)広国押武金日天皇 在位4年
宣化天皇(新設)武小広国押盾天皇 在位4年
欽明天皇 天国排開広庭天皇 在位32年
諡号を見ると、雄略天皇と武烈天皇が泊瀬の反復なのは既に述べた通りです。
次に清寧天皇にある広国押が新設された天皇安閑と宣化に揃って繰り返されているのが特に目立ちます。これは偶然ではなくピンポイントで繰り返すことで、ここに意図的な暗号があることをアピールしていると思われます。元々の国押という号は出雲10代正王の国押富にもあり、その後磯城王朝6代考安天皇にもあります。
そして欽明天皇では広国押の語順が逆にされて、国-広とされ、押の字が排に替わってるのは持統からの憎しみ表現かもしれませんね。
ご精読、ありがとうございました。







宇母方 吉彦です。
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