天皇スメラミコトの起源
初めて天皇という称号が使われた時は、当然ながら和訓読みでスメラミコトと呼ばれていました。
この天皇という称号の起源を見てゆこうと思います。
1一般的に言われる天皇の起源
推古朝の遣隋使が「東天皇敬白西皇帝」と記したと日本書紀にあるのですが、どうやら歴史専門家
から日本書紀への信頼度はかなり低いんですね。
唐側文書に書かれておらへんし、推古天皇が先となると唐の高宗が日本より遅れて私的天皇称号を
使い出したことになってまうで、そんなのありえへんやろ? 日本側の創作に決まっとる。
実際には天武天皇の時代に成立したと考えるんが妥当やろ、というのが1980年頃までの専門家主張の主流でした。
でもよくよく調べると天后という用例は唐より周辺国が先なんですね。
つまり唐の高宗はこっちが後の称号は沽券に関わるなんて気にせず使ってるということ。
となると従来の推古朝説の方が妥当です。
推古天皇15年(607年)小野妹子達を遣隋使として有名な国書「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」を送った。
時の隋煬帝は対等の天子という表現に立腹し返書を妹子に持たせたが、高句麗との交戦を控えていたため返礼使の裴世清を妹子に同行させたのです。
日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」とあった。
これに対する返書に聖徳太子は「東天皇敬白西皇帝」と記した。これが公式文書での天皇称号の初出。
この返書と裴世清の帰国のため、妹子を留学生と共に隋へ派遣した。
ただこの時の裴世清への応対に推古女帝を会わせたかは疑問があります。隋時代までの中国史には
女性の皇帝はいませんから、女帝を会わせて軽く見られるのは外交上避けたかった筈です。
実際の対応は聖徳太子が行ったと考える方が自然でしょう。
尚、聖徳太子の病死後、嘆く未亡人の橘大女郎のために推古天皇が作らせた天寿国繍帳の銘文にも
天皇称号があることからも推古朝説が正しいです。
それではそもそもこの天皇の読みであるスメラミコトとはどういう意味なのでしょうか?
聖徳太子はどこからこの言葉を思いついたのでしょうか?
2「すめら」という古語
「すめら」という古語は、よく「統べる」という語に結び付ける説を見かけてわかったような気にさせられるけれど、本来は何を表すのかを、言語音から解くサイト「日本語の語源」さんから見てみましょう。
「すめるは→すめら」とは、動き、あらゆる動態、を見る時間、宇宙の全運動、あらゆる生々流転を見る時間、というような
意味でありその素朴な敬い表現である。時間が人格を得たようにすべてを見ている。
発生起源的には、時間、時の流れ、自然界の変動は意思を感じさせ、その時間、時の流れを象徴的に表現する「葉(は)」、
それにより象徴的に表現される自然、すなわち、過去永劫から未来永劫への時の流れ、動態たる自然、が「す(為)」を、
人の動態一般を、見ている、ということであろうけれど、これは「かみ(神)」ではない。「かみ(神)」という言葉は別にある。
このような概念があるのは世界中でただ日本だけです。他に例はない。
「すめら」は「かみ(神)」ではなく、神話に登場するというわけではない。これは対象ではないのです。これは、対象を、
ものやことを、世界を、見たり、聞いたり、記憶したり、思ったり、考えたりするその作用の域なのです。
そしてその域の保存保障として、それが置かれた生身の、生きた人が置かれる。存在化される。
それが「すめらおき→すめろき(天皇)」です。
動き、あらゆる動態、を見る時間、宇宙の全運動、あらゆる生々流転を見る時間、というような意味でありその素朴な敬い表現である。
つまり俺が支配するといった主体的な統治ではなく、より高い視点からの客観的な認識行為の尊敬表現ということです。
「すめろき」という古語もありますが、こちらも人の意志は介在せず「すめら」が「置く」であり、認識による自動表現となるようです。
いやいや、深い意味がわかったところで聖徳太子がそれを意識したかどうかなんてわかりっこないよ、という声が聞こえて来そうですね。
ある事を契機に大和朝廷はスメラミコトとなる依り代を手に入れていたのです。
しかしその意味をきちんと会得できたのは聖徳太子が最初だったということです。
もう少し歴史を紐解いていきましょう。
3両面宿儺
(両面宿儺を検索するとアニメ「呪術廻戦」の影響で本来のオリジナルの情報が追いやられて、アニメの関連話ばかりが上位に来てうんざりします。私も観て面白いアニメだと認めてますが、ブームは一時的な狭い年代のものであり、この検索結果の表示は歪んでいると思いますが)それはともかく……
両面宿儺については日本書紀では仁徳天皇65年の条に書かれています。
六十五年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。
頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるがひかがみと踵がなかった。
力強く軽捷(けいしょう)で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命(すめらみこと)
に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣(わにうじ)の祖、難波根子武振熊
(なにわのねこたけふるくま)を遣わしてこれを誅した。
土蜘蛛や熊襲、蝦夷などと一緒で、両面宿儺も大和朝廷に臣従しなかった勢力として公的歴史書の
記紀では一方的に凶悪で粗暴な悪役にされています。
一方で地元の言い伝えや伝承では、地方をまとめたり、産業の発展に貢献したり、寺社を建てたり
した英雄豪族として敬われています。
両面宿儺については岐阜県高山市の普門山善久寺により具体的な話が残っています。
仁徳天皇の時代、丹生川村日面村出羽ヶ平の山が大きな音を立てて揺れ動き、岸壁が崩れ落ちて岩窟が出来た。
その中から身長三メートル以上、頭がひとつで顔が前後にあり、手足が四本で甲冑を着て腰に兵丈をさし、
片手に斧、片手で印を結んだ宿儺という異形の者が出現した。山畑で仕事をしていた村人たちが恐れ
おののいて逃げようとすると、宿儺はこう言った。
「村人よ、恐れることはない。私は、仏法や王法を守るためにこの地にやってきたものであり、この世に
奉仕をするものである。」
この異形の人物の出現のことは都にも伝わり、仁徳天皇はこれを退治するために軍を送ったが、険しい山岳に
阻まれ都へ引き上げてしまった。そこで天皇は、今度は難波根子武振熊を大将とする軍を派遣した。
武振熊は美濃・高沢に陣を張った。
両面宿儺は武振熊に使いを出して、「私は仏法の定めによって大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)に天皇位の王法を伝授するために出現したのである」と伝え、武振熊を位山に案内した。
そこで武振熊に大鷦鷯天皇への王法を伝授し、その印として位山の「イチイの木」で作った笏を献上した。
これを仁徳天皇の頃に仏教は伝来してないから嘘だと非難する方がいるようですが、飛騨の地域で
神社が継続するのは難しく寺によって伝わったという面を見れば、その部分については書き換えが
あっただけ、概略として嘘はないと納得できるかと思います。
そして歴代の王は形式的には天皇になれたのですが、真の意味でのスメラミコトを会得できたのは
聖徳太子が最初だったのです。
それを証し立てるように聖徳太子の地元橘寺には両面宿儺に見立てた二面石が置かれているのです。
ではなぜ両面宿儺はスメラミコトの王法を知っていたのでしょうか?
4飛騨口碑
実は飛騨にも出雲口伝のような飛騨口碑という伝承がありました。とはいっても出雲のように
経済力豊かな伝承王家やがっちりした統治の仕組みがなかったため正確さに曖昧な部分が生じて
いるようですが、彼らは日抱御魂鎮め(ひだきのみたましず)めという神事を通して未来を
予知していたのです。
日抱神社はかつて飛騨に18社以上あったのが明治に弾圧されて伊太祁曽神社いたきそ
じんじゃに改名され祭神も変えられたのです(1社だけ氏子が元の名に戻しました)。
そのため地元でも日抱きの神事を知らない者ばかりになっています。
逆に言うと、それだけ飛騨の歴史の真実を警戒してるということです!
それでは飛騨口碑を見てみましょう。
今から約2500年前のころ、大淡上方様(おおあわのうわかたさま)と申し上げる、賢くて、とてつもなく神通力を
持ったお方が丹生川町旗鉾(はたほこ)の奥の方に出られました。
大淡上方様は深く深く日抱御魂鎮め(ひだきのみたましず)めをして、「先祖代々このかた、皆、平和で幸せで
仲良く暮らしてきたが、これから将来海から上がって来た人たちが暴れたり、喧嘩したりする事が起きてくるだろう。
今までは、ただ仲良くするだけでよかったがこれからは団結して固まってゆかねば幸せを守ることはできない、
いざと言うときに備えて国造りをせねば」と考えました。
我々の先祖は本当に尊い方々であり、みんなが末永く幸せに暮らせるためにはどうしたらよいかと日抱御魂鎮めを
行って考えたと思います。
日抱御魂鎮めは「祈りの精神統一」であり大自然に感謝し先祖に感謝しみんなが幸せになるよう祈るものです。そこで大淡上方様は本家と分家という仕組みを作り国を護ろうとした。
大淡上方様の長男の直系の山麓住日高日抱奇力命(ヤマノフモトズミ、ヒダカヒダキクシキチカラノミコト)や
次男の山下住水分奇力命(ヤマシタズミ、ミクマリクシキチカラノミコト)は飛騨の要所を固め、末っ子の直系命
(マッスグノミコト)が直系を継がれた。
だんだん温度が下がるにつれて、西の方へもだんだんと広がって行った。
大淡上方様は子供や孫や部下の者に、常に国を守って立派にすること、そのためにはまとめ役をする人によく仕えて
団結すること、将来のことを見通して大きな希望を持ってやりぬくこと等々を教えられてのう。
子は孫にまた孫にと子孫が受け継いだ。そして15代となる霊力の強い淡上方様がいざという時に連絡を取りやすいように都を丹生川村から宮村に移すことを決め、
後継者である孫、天津日抱位山奇力命(アマツヒダキクライヤマ、クシキチカラノミコト)を皇統命(スメラミコト)に
任命して都を開かせたのです。スメラミコトの称号はここに始まります。
これが後に国常立命(クニトコタチノミコト)と呼ばれるお方です。
15代淡上方様は初代の大淡上方様の長男子孫の山本高山土公命ら20名を伊勢鈴鹿に移住させ、次男山下住命子孫の一族を
大三島や伊豆や全国の海岸線に派遣し、縄文連絡網を作った。
山本高山土公命から18代目が猿田彦命サルタヒコノミコトです。
西に行かれた山下住命の子孫に大と敬称がついて大山下住命と申し上げていたが、やがて下が取れて大山祇命オオヤマズミノ
ミコトとなったのです。出典 山本健造著「明らかにされた神武以前」福来出版
すごい伝承でびっくりしました。
注目すべきことは、この初代大淡上方様の生まれた丹生川町こそ両面宿儺伝説の中心地でもあるのです!
飛騨の首長大淡上方様は海からの渡来人がこの国で暴れたり喧嘩することを予知していたので本家と分家を飛騨の要所に配置し、子孫は団結心を受け継いでいった。
そして15代淡上方様が孫の位山命に皇統命(スメラミコト)の地位を授けていたのです。
もしかすると両面宿儺も淡上方様の末裔だったかもしれません。
唸ってしまいますね。
こんなところといったら失礼ですが、飛騨に天皇スメラミコトの起源があったとは想像もしてませんでした。
しかし、もしそうだとしたら、どうして両面宿儺は攻め込んで来た大和朝廷勢にあっさりと白旗を上げて大事な筈のスメラミコトの王法を伝授してしまったのでしょうか?
外側から見ると納得いかないですが、鍵は予知能力があったということですね。
つまり飛騨が武力で負かされる未来が見えていたから無駄に血が流されるのを避けたのだと思われます。それと同時に仮に大和朝廷にスメラミコトの王法を渡して支配されても、縄文時代から受け継いで来たスメラミコトの霊威と正義の霊力によって精神的には自分達の縄文日高見文化がこれからも守られて続くことまでを予知していたので、安心してスメラミコトの王法を伝授したのに違いありません。
これこそが、たとえ暴力的な武家達によって何度も政権を取られても天皇すめらみことの地位が打倒されたり廃絶されることなく、ずっと日本国をさらなる高みから統合し続けて来れた最大の理由なのです。
飛騨の大淡上方様から両面宿儺へと受け継がれたスメラミコトの法力が時代の変遷をものともせずに、日本の国を護り続けて来たことは実にありがたいことですね!
実際、二千年を経た現在も天皇の即位には飛騨位山の「イチイの木」で作った笏が使われ続けていることは極めて特別な意味があるのですね。
ご精読、ありがとうございました!