諏訪大社ミシャグジ様の正体

古事記にある有名な出雲の国譲りの場面、大国主の息子建御名方神は建御雷神に唯一人挑んだものの敗れて諏訪に逃げて諏訪明神となるわけですが、諏訪に入ると元から諏訪にいた洩矢神をはじめとする神々と戦いがあったようです。ここで地元の神々に勝ってようやく諏訪大社の主として認められたのです。(もっとも私は敗者の出雲口伝の方が記紀より正しい立場で、国譲りという和平交渉はなく、史実は徐福による出雲王暗殺後に殺された事代主の后奴奈川姫が息子建御名方を連れて諏訪に移り住んだと考えてますが、話が複雑になるので本記事は国譲り説に沿います)
しかし建御名方が主となった後も、諏訪にはミシャグジ様と呼ばれるよくわからないまま信仰されている神がいるのです。
今回はこのミジャグジ様の正体について明かしてみたいと思います。
ミシャグジ様の呼び方
ミシャグジ様の名前にはさまざまなバリエーションがあり、当て字と漢字の組み合わせも大変多いですね。
ウイキペディアによれば
ミシャグジ(御左口神、御社宮司、御射宮司、御社宮神 等)とは、長野県にある諏訪大社上社(かみしゃ)の神事に登場し、諏訪地域とその周辺に祀られる神霊・精霊の総称である。
私はその音から真っ先に御射山を連想するのが自然かと思いました。
御射山みしゃやまは諏訪大社上社では八ヶ岳山麓にあり、諏訪大社下社では霧ケ峰にあります。諏訪大社にとって聖地と言えそうだからです。
上社の社家の一つである守矢氏の古文書では「御左口神」が主に使われる他、守矢家敷地内の摂社では御社宮司という表記もあります。『諏方大明神画詞』(1356年成立)では「御作神」として一回出て登場。このほかに「御社宮神」と表記する文献もある。現在の諏訪では「御社宮司」「御射宮司」「御社宮神」と書くことが多いそうです。
とはいえ漢字は後から音に充てたものでしょうからその神霊・精霊の成り立ちを探る際の重要度は低いかもしれません。
さらに読み仮名も守矢氏当主は「ミシャグチ様」と呼びますが、一般に最も流布してる「ミシャグジ」と最後が濁る例や、「みさくうし」「サグジ」「ミサクジ」「ミサグチ」と多様です。
柳田邦男は石神(シャクジ)と石神(いしがみ)を結び付ける説を提唱したものの、全ての地域で納得させる説明は出来ていないようです。
つまりこれらは本来の出自や意味がわからなくなってることを示しています。
諏訪上社の神事
諏訪上社の神事について室町時代に書かれた『諏方大明神画詞』や守矢氏の古文書から内容の概要が明らかにされています。
守矢氏の口伝には以下の内容があるそうです。
一、冬期に竪穴の御室の中で行われる神事の秘法。
一、御頭祭の時に行われる御符札の秘法。
など年内神事七十五度の秘法を始め、
一、大祝が前宮のカエデの樹の下で行う即位式の秘法。
一、祈禱殿で行う蟇目ひきめの神事法。
一、家伝の諏訪薬なる製造法。
一、 守矢神長の系譜。出典:守矢早苗「守矢神長家のお話し」『神長官守矢史料館のしおり』
一年の神事が75回とありますが、この75は当地の神聖な数字のようです。例えばミシャグジ様を祀る祠が75であり、御頭祭で捧げられる鹿の数も75頭です。
ただ秘法の内容については明治政府が神長官を廃止したため、その時の当主76代目の守矢実久氏が息子の77代目真幸氏に教えた一部の「ミシャグチ神御頭占定の秘法」と「蟇目神事」について伝わるのみだそうです。
ミシャグジ様
神長官守矢資料館のしおりを読むと、ミシャグジ様(守矢氏の言い方ではミシャグチ様)の正体は森や山に普遍的に存在する精霊であるということです。
元来は三地域の内県うちあがた(旧諏訪郡)、外県とのあがた(旧伊那郡一帯)、大県おおあがた(諏訪湖周辺)からそれぞれ1年毎に男の童子が選ばれます。選ばれた童子は、神長官の敷地にある神殿(こうどの)や御室(みむろ)に一定期間籠ったりしながら、様々な儀式に臨みます。
具体的には諏訪大社前宮境内に、幕を引いて神殿を設け、最終段階でそこで神長官(守矢氏)がミシャグジ神霊を呼び降ろし、「大祝おおほうり」に選ばれた童子に憑依させて現人神とするものだそうです。
2025年公開のドキュメント映画「鹿の国」では、少年が大祝とされる御室神事の儀式などを再現しており大変興味深いです。下にその画像をお借りしました。

建御名方による諏訪征服以後は「大祝」となる童子は建御名方の子孫である諏訪氏の一族から選ばれて生神に据えられたような印象です。そして補佐する神長官じんちょうかんに洩矢神の子孫である守矢氏を配しました。さらに「大祝」の下に置かれた5人の神職「神使おこう、こうのと」が奉仕するという職制になってたようです。
ここで注意したいのは、建御名方参入以後は、御衣木法理有員(みそぎほうり ありかず)を伝説的上祖とする諏訪氏(神氏みわし)から出た上社の「大祝」は祭神・建御名方神(諏訪明神)の生ける神体とされ現人神として崇敬されたとなってます。
しかしこれはネット上では確認が難しいのですが、太古は「大祝」に選ばれた童子に憑依させたのは建御名方が来る前なのですから、当然、ミシャグジ神そのものを降ろして付けた筈です。建御名方の参入後に諏訪一族の童子がなった「大祝」に憑依させるのは諏訪明神になり、但し補佐する神使には相変わらずミシャグジを降ろすというように変遷があったように推察します。
土着のミシャグジ信仰を守る立場からすると、建御名方子孫の「大祝」に諏訪氏の立場を保たせたまま、ミシャグジに憑依された神使たちで囲んで太古の精霊ミシャグジの霊威を認めさせることが重要だと思われるからです。
実際、「大祝」を補佐して神事を司ったのは守矢氏出身の神長(かんのおさ、後に神長官)は大祝の即位式を含め上社の神事の秘事を伝え、神事の際にミシャグジ様(御左口神)を降ろしたり上げたり、または依代となる人や物に「付け」たりすることができる唯一の秘伝の伝承者でした。
この点からも建御名方側は力でねじ伏せることは出来ず、守矢氏に補佐の地位を与えるしかなく、古来からのミシャグジ信仰は維持されたのです。
御室神事は、旧暦の12月22日、穴巣始(あなすはじめ)から始まります。穴巣の名の通り、上社の前宮に設けられた半地下の御室と呼ばれる小屋に、「大祝」=現人神と、神長官守矢氏を筆頭とした5名の神官らが翌年3月の寅の日まで通います。御頭祭では神前に75頭の鹿の生首が供えられました。
全ては豊穣を願うための縄文時代の信仰から来ているようです。
実際に『播磨風土記』にも「生ける鹿を捕り臥せて其の腹を割きて其の血に稲種きき。仍りて一夜の間に苗生ひき」と凄まじい苗の生育効果があったことが記されています。
名の響きは愛らしいミシャグジですが、その掟を破る者には恐ろしい神罰が下りました。
『諏方大明神画詞』によると
「現人神である大祝は諏訪郡を出てはならぬ、または穢れの元となる人や馬の血肉に触れてはならぬ」という厳しい不文律があった。
この掟を破って奥州征伐に従軍し、また源義家(八幡太郎義家)の誘いで上京しようとした諏訪為仲は、大祝在職中ということで諏訪社一同に反対された。それを押し切って出立したところ、社の鳥居を出ると馬が数頭病気で倒れ、更に郡の外を出ると馬が七頭も病死した。やがて美濃国にたどりついて源義光一行と酒宴を催するが、部下双方が喧嘩し死傷者を出すに及んで、為仲は責任を取って自害する。
父の諏訪為信はこの事件を神罰と見なし、遺児の為盛を大祝の職に就けさせなかった。
しかし、次に大祝となった為仲の弟の為継は任職3日後に頓死し、その弟の為次も大祝任職7日後に急死したというのです。
いかにミシャグジ様が掟に厳しいかがわかりますね。
御柱の意味するもの
諏訪大社でミシャグジよりはるかに有名なのが御柱祭ですね。
では御柱とは一体、何を意味してるのでしょうか?
建御名方との戦いに敗れた守矢氏はその場で申し出たのではないかと思います。
「あなた様は確かに私どもより強いが、この土地はミシャグジ様の神威が治めている土地だ。もし、あなた様がこの神を疎かに扱うならばたちまちあなた様は災難に遭わされ、滅ぼされるだろう」
当初、建御名方はそんなのは迷信だと笑い飛ばしたのでしょう。ところが諏訪為仲の逸話にあるように、たちまち馬が何頭も頓死してしまったのかもしれません。さらに近親者が病気にかかって命も危ういような事態が突発したかもしれません。
そこで建御名方はすぐに守矢氏に「土地の神霊・精霊に対して無礼があったのなら謝る」と詫びたのです。
守矢氏は自分を祭祀の補佐役に用い続けることや、諏訪に縄文時代からいる精霊や神々について条件を願い出たと思われます。
その具体的な条件こそが、建御名方の建てる社の四方に縄文からの神々が宿る大きな柱を立てて威圧し、われらが崇める縄文からの神々への敬意を常に忘れずに表すことだったのではと思えるのです。
守矢氏は、古くから「七本の峰の湛たたえ」と呼ばれる特別な神木を守ることで、ミシャグジ神を祀ってきたとされます。
守矢氏の敷地にある御頭御社宮司総社の様子をご覧ください。小さいながら四つの御柱が立てられています。
その背後にある小さな祠にまで四本の御柱があります。


柱こそが森や山に普遍的に存在する精霊ミシャグジ神の降りる依り代なのです。
新参の他所者に御柱を見せつけて、この地に太古から続く神の神威を知らしめる必要がある。その心から御柱祭が始まったのだと思われます。
ミシャグジの名の謂われ
ここからは私の妄想が入ります。
カタツムリ(古語ではカタツブリ)は欧州で三万年前に焼いて食べられていた形跡が見つかっています。カタツムリは陸貝類で、その殻を持たないのがナメクジです。
ナメクジは植物の上を舐めて這った跡がえぐるようにくじってるから「ナメてクジる」生き物と名付けられたという説が有力です。古語ではナメクジは最古の字書新撰字鏡に「奈女久地」とあります。カタツブリは和名抄に「加太豆不利」とあります。
貴方が万物の生命の輝きを愛でる縄文人だとしたら、大きな葉に痕を引いて這うナメクジを見つけても気味悪がったりはしません。むしろ貴方はそれをカタツムリの精霊が現れたのを見つけたように思い微笑み、「ナメクジさまが無事に固い殻をかぶりカタツブリになれるように」と祈り、見送ったのではないでしょょうか。
縄文人にとってナメクジはカタツブリの精霊なのです。
歴史は古史古伝の中にあるのではなく貴方の心の中にあるのです。
御柱には聖地御射山の精霊が宿っているのです。当初、その精霊がどう呼ばれていたかはわかりません。
しかし聖地御射山の精霊が宿った大木を男衆が綱で引いて進んでゆくのを眺めていると、まるで御射山の精霊が大地をくじって進むように見えて、この「ミシャの精霊がクジる」様子こそが我らの神の名にふさわしいとされたのだと思えます。
こうして森や山に普遍的に存在する精霊と神々を御柱などの依り代に宿し、神社に迎えて崇めるというのが縄文から伝わる神道信仰の普遍的構造だと言えるでしょう。
ご精読、ありがとうございました。








宇母方 吉彦です。
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