欠史八代の真相
出雲傍流系王朝
名前だけで実態がない、実在が疑わしいと自称専門家達に暴言を吐かれた欠史八代は徐福父系の血が入った出雲傍系王朝で、実在しました。そのため記紀では詳細を書くことを控えられたと思われます。
記紀を書かせた権力者は、皇統を出雲より古く見せるため、辛酉革命説を採用して出雲開始より古い紀元前660年の辛酉年に神武天皇の即位を設定したのですが、却ってそのため万世一系の破綻が見えて、むしろ神武天皇こそが東征しか事績が見当たらず他の実態がないように見えてしまってます。実際には全く違う時期に実態があって、本来の名は別にあり、徐福父系出雲傍系王朝の初代天村雲の名を上書きしてしまったというのが真相かもしれません。
私も現天皇家に繰り返し親しみ崇敬の念を抱いてきた日本人ですので、この事実を認めるのは耐えがたく忍び難いという気持ちになるのはよくわかります。
ですが、美的で心地よい万世一系や皇紀2600年等の美辞麗句に洗脳されるままに、ひとつも疑いを持たないというのは、知性の進化した筈の人間の態度として歪んで病んでいる態度と言えます。
この歴史的真実を受け入れたうえで、象徴としての天皇を崇敬し、日本人の高い道徳性や深い思いやりの心に磨きをかけて世界にこの精神性を広めてゆく方が日本人として人類に貢献できる道だと思います。
それでは欠史八代の真相を明らかにしていきましょう。
1日本で最古の出雲王国
日本で最も古くから権力統治体制が整っていたのは出雲王国でした。
出雲王国では東の富家と西の神門臣家のふたつの王家が正王(職名が大国主)、副王(職名が事代主)となって統治する王制が確立しており、八重書きと呼ばれる法律もあり、常設軍もあったので国家の体裁が完成していたのです。
出雲の他では飛騨王国もかなり古そうですが、こちらは権力統治の実態や軍備を確認できる口承、文書、遺物遺跡等がないため国家と断言出来ません。
では日本最古の出雲王国の始まりはいつまで遡る事が出来るのでしょうか?
出雲王国には時期を狭い範囲で比定できる事件がありました。
出雲王国が出来て八代目にあたる正王(大国主)八千矛の時です。
秦の始皇帝が中国統一を成し遂げた二年後の紀元前219年、斉国琅邪郡(現在の山東省)の徐福はこのまま秦の始皇帝の臣下で終わるよりは新天地で王になりたいと考えていました。そこで始皇帝の不老不死願望に付け込み、「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と嘘を吐き、蓬莱(日本)に渡って霊薬を探し出して来ますと言い包めて、莫大な資金と船団、多くの技術者と少年少女を得ました。
まず手下の少人数を偵察のため上陸させたところ、出雲の守備兵に厳しく取り締まられたので方針を転換し、次に部下の穂日タケヒナドリに豪華な贈り物を携えさせて出雲王に移住を願い出させたのです。するとあっさり許されました。
この穂日から出雲の内情を知った徐福は自身を王族ホアカリと称して上陸し、出雲王に歓待されます。そして時間をかけて歓心を買いながらついに、出雲七代王天之冬衣アメノフニギヌの娘高照姫を嫁にして深い縁を結ぶことに成功したのです。
そこで徐福は次の段階に着手しました。今の正王と副王を亡き者にすれば自分が王になるのは簡単だろうと考えて、連れて来た少年達(海童)に正王、副王を拉致させてそれぞれ別の洞窟に監禁し餓死させたのです。
事件を受けて徐福はおそらく「痛ましい事件ですが、ここは先王の義理の息子である私が正王の意志を継いで王になりましょう」とか言い出したのでしょう。しかし、そう切り出しても事態は徐福の描いた展開にはなりませんでした。出雲の王制は特殊で、代替わり毎に正王副王の地位を交代するという細かい規則が出来上がっていたのです。つまり正王が亡くなれば今の副王の家から次の正王を出すことが定められていたのです。さらに出雲の司直の厳しい追及に海童の一人が拉致監禁を自白してしまいます。
徐福は我が身の危険を感じて息子も嫁も捨てて、さっさと大陸に逃げ帰ったのです。
(しかしその後も徐福は新天地での王国をあきらめませんでした。紀元前210年、徐福は再度始皇帝に面会すると、海の彼方には怪物がいて蓬莱に近付けないのでもっと兵を増やしてくれと泣きついて兵を増員させ、今度は九州にニギハヤヒと名乗り再上陸するのです。饒速日の饒は徐福の故郷の地名「饒安(じょうあん)」から取ったものです)
ここで八代正王(大国主)八千矛の時、紀元前219年以降から210年より以前の間に徐福が出雲に渡来したことがわかります。
歴史上何代も続く過去の王朝統治のひと世代を推定する場合、25年、または30年が適合する場合が多いようです。
但し古代日本では半年1年暦と言って、半年で1年を数える暦だったため2倍の年数になってる場合があります。これが古墳時代以前の天皇在位期間が異常に長くなる理由のひとつでもあります。
このため、ここではわかりやすくするため年数は西暦換算で数えて30年で考えてみます。
八代王八千矛の治世が紀元前230年に始まった(つまり八千矛の治世から約10年して徐福が来た)と仮定すると、七代王天之冬衣の治世は紀元前260年~紀元前230年となり、六代王臣津野の治世は紀元前290年~紀元前260年となり、五代王深渕之水遺花の治世は紀元前320年~紀元前290年となり、四代王布葉之文字口巧為の治世は紀元前350年~紀元前320年となり、三代王八島手の治世は紀元前380年~紀元前350年となり、二代王八島篠の治世は紀元前410年~紀元前380年となり、初代王八箇耳の治世は紀元前440年~紀元前410年となります。
また八代王八千矛の治世が紀元前250年から紀元前220年までで(八千矛の治世の終わり頃に徐福が来た)と仮定すると初代王八箇耳の治世は紀元前460年~紀元前430年となります。
いずれにしろ出雲王国は早くて紀元前460年から、遅くとも紀元前430年から始まっており、ひとことでくくると出雲王国は紀元前五世紀半ばに始まったと言えるわけです。
この出雲の歴史は王家で口伝として継承されてきました。日本の歴史上、出雲は大和朝廷に屈服した王国であります。世界中のどの国でも勝者となった権力者は勝ち誇って歴史を書き残します。自分達の卑怯な点や汚れた点を削除隠蔽し、自分たちがいかに堂々と栄華を手にしたかを誇り、小さなことから大きなことまで自分たちに都合がいいように書き換えることをたびたびします。しかし、敗者の立場は圧倒的に弱いため、権力者のように歴史記録を例えば勝者がどんな汚い手を使ったかを訴えたり、被害を大きく書いたり少なく書いたりしたり改竄してもそれで自分や先祖や子孫の誰も喜ばすことは出来ません。正王副王が徐福の手下に洞窟に拉致監禁され餓死させられたことを「枯死」という植物に見立てた悲しいほど中立的な、言って見れば怒りや悔しさを透き通らせた縄文的な表現で淡々と伝えるのみなのです。
つまり結果として敗者の歴史は勝者の歴史よりも改竄がない正直な記録になると言えるのです。
2徐福が去った後の出雲
徐福の后高照姫は自分が政略のために徐福に騙されたのだと知り怒って実家の富家に戻ってしまい、生まれた息子の五十猛はやむなく姪の大屋姫が乳母となって出雲人として育てました。もっとも王二人を殺された出雲の人々の心は悲しみと怒りに染まってしまい、もはや徐福が連れて来て残された秦一族を許すのは難しく、近所からも常に敵対され当たられました。
出雲で生きてゆくのが辛くなった五十猛と大屋姫、そして秦一族の大部分は出雲から逃げるように丹後の土地に移りました。
ここで五十猛は天橋立を見渡す風光明媚な現在の籠神社の裏手香語山に住まいし、育ててくれた大屋姫を后として天香語山アマノカゴヤマと名乗りました。(秦一族は丹後で海家アマケと呼ばれ、後に葛城に移住した先では尾張家と呼ばれ、さらに海部家アマベケと改姓します。)
天香語山は父徐福の血が入ってますが、母は出雲人であり、さらに祖母が宗像三姉妹の長女田心姫です。時を経て後に宗像三姉妹の三女市杵島姫の娘穂屋姫を妻に迎えたことで、宗像家の女系の血が明確に入った息子天村雲を授かります。ただ、ここで気になるのは徐福が三女市杵島姫を娶っているため徐福子の異母兄天香語山と異母妹穂屋姫の兄妹婚になってしまうので、その後に近親婚遺伝による悪影響が出たかもしれません。
出雲両王暗殺事件の後、
暗殺された大国主の后だった多伎津姫タキツヒメは、オウノ群のアダカヤ・阿太加夜(東出雲町)に住む、宗像三姉妹の一人である、姉の田心姫タコリヒメの許に移り住んだそうです。
暗殺された出雲事代主の后だった奴奈川姫ヌナカワヒメは息子の建御名方を連れて信濃の上田、諏訪に移り住んだそうで、諏訪大社に祀られています。
事代主の別の后・活玉依イクタマヨリ姫とその子の奇日方クシヒカタと妹のヒメタタライスズヒメとイスズヨリヒメは摂津国三島に帰りますが、大和の将来性を考えて登美里(高槻市登美の里町)からさらに御所市の辺りに移り住みます。そこに事代主を祀る鴨都波神社(かもつばじんじゃ)を建てたそうです。賀茂、鴨という名は出雲で神を「かも」と呼んだためです。
3欠史八代と呼ばれた磯城王朝
それでは磯城王朝の真相を見ていきましょう。
初代天村雲王 通称は天村雲王 和式諡号は天五多底命アマノイタテノミコト
初代の天村雲命は当初丹後に暮らしていたのてすが、大和地方の豊かな将来性に惹かれて葛城地方の笛吹に移り住みました。その辺りは高尾張村という村で、海部家は尾張家とも呼ばれたようです。笛吹には火雷神社を建て、父の香語山命を祀りました。そして先に移住して三輪山の太陽の女神として崇拝されていたタタライスズ姫と結婚しました。その時、大王の就任の祝いに出雲王から贈られたのが、天村雲の剣です。「記紀」では天村雲の名を消すために草薙の剣と名を変えられました。
ここで古代を語る時に忘れてならないのが縄文海進です。
BC1万1千年頃始まったこの現象は海の水位が上がって陸地を呑み込むもので最大時で今より海抜6メートルの高さまで海が進んで来ました。
その後、BC3千~BC2千年頃には現在の海岸線にほぼ戻りましたが、内陸部の水が完全に引くには至らず、大和盆地の中央ではまだまだ沼が広く残っていました。そのために天孫降臨の土地が豊葦原の水穂の国と形容されたのだと推察出来ます。
今の橿原市香具山は沼の中の島のようであり、その様子が海中にある蓬莱山に似ていたため、天村雲命は父の香語山命(かごやまのみこと)を祀る社を建てました。その結果、山の名前が天の香具山、香語山命は香具山命(かぐやまのみこと)と書き換えられたようです。
天村雲命の和式諡号は天五多底命で、父の香語山命の昔の名の五十猛イソタケを縮めてイタテとして頂いたものです。
このように磯城王朝初代にあたる天村雲は父の香語山命を祀る出雲傍流であり、九州から東征してきた神武天皇とは全くの別人です。
二代綏靖天皇 沼河耳王 神沼河耳命カンヌナカワミミノミコト
名の神沼河耳から、事代主に求愛され結婚した奴奈川姫の子孫、娘の子、孫なのかもしれません。
三代安寧天皇 玉手見王 師木津日子玉手見命シキツヒコタマテミノミコト磯城津彦
三代安寧天皇玉手見王の時に大和全体を支配することが出来たので名前に磯城が入ってます。
しかし大和の勢力圏の維持は難しく四代懿徳天皇スキトモ王の時から次第に他の豪族の力が増して支配地は全体の三割程度に縮小したそうです。
四代懿徳天皇 スキトモ王 大倭日子鉏友命オオヤマトヒコスキトモノミコト
ここで和式諡号に「大倭」と入っているのが注目されます。大祓詞では安国と定める範囲について天孫が降臨した豊葦原の水穂國とその四方と述べた後に、唐突に「大倭日高見國」という国名を並べます。これは後の大和朝廷が先行勢力として大倭日高見が既にあったことを認めた証拠です。大倭の称号は六代孝安天皇、七代孝霊天皇、八代孝元天皇と続き、さらに飛んで22代清寧天皇にも見られます。さらに記紀の編纂を命じた天武朝の后で41代持統天皇がなぜか日本書紀諡号に大倭根子としてます。持統天皇は純然たる縄文日高見の日本人になりたかったものの古事記諡号にそうすると嘘になるので控えたのかもしれません。根子は大王と同じ意味のようです。
五代孝昭天皇カエシネ王 御真津日子訶恵志泥命ミマツヒコカヱシネノミコト
カエシネ王は尾張家のヨソタラシ姫を娶り、国押人を産みました。
六代孝安天皇 国押人王 大倭帯日子国押人命オホヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト
国押人王は紀元107年に自ら後漢に渡り安帝に奴隷160人を献上して、自分をヤマト国の大王だと認めてくれと頼んだようです。そして中国史書に名を記された最初の日本の王になります。後漢では当初オシヒトのシヒを聞き取って師飛としたが、書を書き写す時に草書の師飛を帥升と誤って記したと考えられるそうです。
後の大和朝廷は王自らが後漢に渡り属国となったことを恥と考えて、国押人ではなく天押帯彦と名を変えて偽り国押人王の兄だと記紀編集者に改竄させました。
この国押人王の時代に筑後の物部勢力が和歌山紀の川河口に上陸しました。
尾張家から嫁入りした女村長名草戸咩が奮戦して、物部の指揮官五瀬が戦死したため、物部軍は船に戻り、迂回して熊野本宮近くの中州に砦を構えました。
物部軍は九州から兵を補給するとともに三輪山の出雲系登美家と交渉しました。
そこで加茂建津之身が道案内を承諾し、物部軍にヤタガラスと呼ばれ後々まで神社で祀ったようです。記紀神話では神武天皇があっさり大和に入ったような印象に書かれてますが、実際は熊野本宮近くの中州でかなりの年月を過ごしていたわけです。
七代孝霊天皇 フトニ王 大倭根子日子賦斗邇命オホヤマトネコヒコフトニノミコト
フトニ王は登美家のクニアレ姫を娶り、大彦と倭迹迹日百襲姫を産みました。
フトニ王は物部との戦いを避けて細姫と大吉備津彦たちを連れて吉備に移って播磨のヒボコ勢を滅ぼしさらに出雲とも対陣しました。
大和に残った大彦とクニアレ姫の妹の子たちが物部軍と戦いました。この戦いは出雲傍流家の銅鐸祭祀信仰と物部の鉄刀「フツノ御霊」を依り代とする武神信仰の宗教戦争でもあったようです。
吉備と大和での戦争をうけ中国史書に倭国大乱と記される状態となりました。
孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫ヤマトトトヒモモソヒメは幼い頃より聡明で、神意を伺い、まじない占い等で予知する能力を持っていたようです。少女期は讃岐に移り住み、水主神社では日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたと伝えられています。
その後、大乱を解決するために大和に呼ばれて、倭迹迹日百襲姫が登美家の支配する三輪山で姫巫女となり、春秋に行なわれた大祭には大和はもとより、出雲、北陸、東海の広い地域から豪族や民衆が泊りがけで参集したといいます。これはまさに武力を超えた縄文精神、日高見の願いが実った平和の集いであったのです。
八代孝元天皇 クニクル王 大倭根子日子国玖琉命オホヤマトネコヒコクニクルノミコト
フトニ王の後を受けたクニクル王は物部勢と妥協し、銅鐸を土に埋めました。
大彦はこれを残念がり、尾張家と連携して木津の曽根山に宮を築いて銅鐸祭祀を継続しました。
そこで記紀の編集者は敵対する大彦を長脛彦の名で呼び彼の勢力を中華思想のやり方で蝦夷と呼んだのです。ところが、その一方で大彦の名を四道将軍と記すこともしていて、後退して遠ざかる大彦をまるで自分たちの勢力拡大の指揮官に見せたのです。また四道将軍には吉備津彦も大和朝廷が吉備征伐に送ったと全くの嘘が書かれています。
九代開化天皇 オオビビ王 若倭根子日子大毘毘命ワカヤマトネコヒコオホビビノミコト
オオビビ王はクニクル王の妥協方針により物部の血が入った傀儡の王のようで出雲口伝にも詳細がないようです。このオオビビ王までが磯城王朝と呼ばれています。
4まとめ
表は出雲王国と磯城王朝の歴代王の時系列対照図です。
左の薄黄色と空色が出雲正王(大国主)名と西暦推定年。右の竹色が磯城王朝の王名で西暦推定年は大和のもの。
出雲八代八千矛王の時に徐福が渡来して出雲乗っ取りを企てたのです。
磯城王朝9代開化天皇と大和朝廷10代崇神天皇11代垂仁天皇の間は断絶があります。
10代崇神天皇は九州在住のままで大和の地は踏まないうちに亡くなったようです。大和では倭迹迹日百襲姫が絶大な人気を集めて、その様子が卑弥呼として記録されたのです。
欠史八代と呼ばれた磯城王朝には徐福のおぞましい事件の影響で出雲から追われて流れて来た一族の実体があったことがおわかりいただけたでしょう。
このように記紀には改竄捏造が多すぎるようです。
日本人の大半は聞いた話も善意で信じて受け容れるという縄文から受け継いだ自然な態度が身に着いているため、記紀の創作した嘘を少しも疑わず信じ込んで、今も騙され続けているようでとても残念なことです。
天皇家を崇敬するのは日本に生まれて日本人の遺伝子を受け継いだ者として当然であり素晴しいことですが、同時に記紀の伝えて来た物語には驚くほど多くの嘘が入り込んでいることも冷静に気付いて受け止めなければなりません。
今の世は大半の日本人の態度を悪用して天皇家を自分たちの都合の良い形に変えて日本支配に利用しようと企む悪質な輩がいることに気付き警戒しなければなりません。さもないと素晴らしい天皇制がいつの間にか歪められてしまう可能性があるからです。
男系の万世一系は歴史上に間男の子が一人でもいれば破綻するもので、現実問題としてはお花畑での夢物語です。かといって一夫一婦制の現代で複数の側室を持って男子誕生を継ぐという形態ももはや不可能です。
大事なのは悪質な輩の主張、騒音に惑わされず私達ひとりびとりが縄文時代から引継いだ、誰にも優しくもてなす、助け合う愛に溢れた大倭日高見の心をこれからも堅持してゆくことです。それこそが日本という国のアイデンティティー、つまり日本不朽の姿勢と態度を守ります。
天皇陛下の後継については、日本という国の不朽の姿勢と態度に寄り添う縄文日高見の心を自然に備えた品格ある方で国民統合の象徴として総意を得られる方、おそらく印象として姫巫女のような方に天皇となっていただくのが最善かと思えます。
ご精読、ありがとうございました。